追悼


鶴田 治樹(昭36) 「鶴田治樹君を偲ぶ」 宮嶋 弘、根本 力男、中澤 知男(昭和36年卒)

鶴田 治樹(昭36) 「尊敬する先輩鶴田さんを偲んで」 百足 嘉魏(昭和40年卒)

鶴田 治樹(昭36) 「鶴田治樹さんの追憶(東北大在職中の思い出)」 向井 利夫(昭和22年卒)


鶴田治樹君を偲ぶ


宮嶋 弘、根本 力男、中澤 知男


 我々昭和36年卒業の同級会(33名)、トリプルボンド会は仲間の赤城元男君が昨年6月に亡くなられ悲しみが未だ癒されない内に、鶴田治樹君を本年2月に失ってしまいました。

 トリプルボンド会では3年おきに一泊の親睦旅行することが慣わしになっており、3年前(2005年5月)には山梨県石和温泉に宿泊した。その年の4月鶴田君からようやく高砂香料の役職を退き、自由の身になったので一泊旅行に参加するとの返事を頂いていた。皆の強い絆を意味するトリプルボンド会の名付け主は鶴田君である。ところが旅行出発一週間前になって、精密健康診断を受けなければならないので旅行に参加出来なくなったことを連絡してきた。旅行が終わって暫く経ってから、心配で連絡したところ、胃の摘出手術で、今療養中とのことであった。手術後1年半以上経っても回復が芳しくないとの事なので、昨年4月14日渋谷で、東京近郊のトリプルボンド会員15名が集まり鶴田氏を励ます昼食会を開催した時も、第2回の励ます会を9月29日に開いた時(11名参加)にも元気な姿を見せて仲間と談笑し皆を安心させてくれました。今年2月13日夜トリプルボンド会例会(この時古稀のお祝いに北海道旅行を決めた)を鶴田君が出席し易いように渋谷で開催しましたが、彼は出席出来ませんでした(夜の会なので今回は参加出来ないと1月20日のE−メールが最後でした)。この時点で病状が悪化し入院治療中だったようです。2年半以上に亘る療養の甲斐なく、ご家族に見守られながら平成20年2月22日帰天なされました。これからはいつでも参加出来るから会員皆でゴルフや旅行を年1〜2回やろうと、第二の人生を楽しもうと言っていたのに残念でなりません・・・平成10年9月12日宮古市熊安ホテルでの会合には鶴田君、赤城君も出席し総勢24名が参加した盛大な旅行を昨日のように思い出されます・・・。ただ奥様、お子様御家族のお悲しみはいくばくかとお察し申し上げるだけで慰めの言葉を見え出せません。

 4学年に進学し、鶴田君は私(中澤)、宮嶋を含め6名の仲間と共に、野副研究室を選んだ。鶴田君は当時の向井助教授の部屋に配属になり、皆それぞれが研究室の厳しい指導のもと、日夜実験に励み、化学者としての基礎をたたみこまれた。野副先生、向井先生の指導を受け、修士、博士課程をへて、向井先生が教授に昇任されて、向井研究室のスタッフになった。昭和46年度には、向井研究室での研究業績が認められ、第21回進歩賞を受賞した。君は多才で、野副杯の野球ではよく活躍した。君のチェロの演奏は本格派で、楽器を抱える演奏のかっこいい姿を今でも覚えていて、その音色にリフレッシュされました。向山の新婚のご家庭には仲間を招待して頂き、奥様の手料理を御馳走になり、独身の仲間にとってはあこがれのご家庭だった。

 その後、請われて高砂香料株式会社に入社し、化学工業界への道を選んだ。途中入社で苦労はあったと思うが、ここでも君は実力を発揮した。当時名古屋大学の野依先生が開発した金属―BINAP錯体を用いて不斉合成技術を開発し、メントール合成の工業化に成功した。これは、野依先生がノーベル賞選考理由にもなった「不斉(ふせい)合成触媒」の化学工業分野での応用で、同社は世界の需要の一割近くをまかなうまでに成長したとのことである。この業績により、君は共同研究者と共に、平成8年度第45回化学技術賞を受賞し、また専務として、会社を支えた。また、学会のためにも貢献し、有機合成化学協会関東支部長、有機合成化学協会副会長を務めた。

 香料で蓄積された合成技術を応用してファイインケミカルをコアとした事業を育てる仕事を担当し始めた46〜47才頃だったと思うが、小生(宮嶋)が勤務する事業所(彼が高等学校卒業するまで住んでいた日立市)へレーザープリンター用の増感剤の売り込みにやって来まして、その夜二人で新規事業の育成について議論し合い、ニーズ志向でプレ、アフタサービスをいかに徹底するかだと話し合ったのがつい昨日のように思い出されます。紹介された増感剤は数年間OPCドラム用に使っておりましたが、この事業から撤退してしまい迷惑をかけたのではないかと思っております。その後、お互に本社に勤め会社の製品戦略、それをサポートする研究開発、生産技術を担当するようになり、共通の話題が増えて2〜3ケ月に一度酒の席を設けてお互の思い出を語り合いました。また、事業拡大のグローバル化対応では高砂香料は全世界に展開されており、研究、技術サービスを強化して経営効率を上げるため彼は頻繁にアメリカ、ヨーロッパ、更に中国へ出張し、各国の事情など参考になる話を聞かせてもらいました。そして、撤退は相手国の法律をクリアーするのが如何に難しいか、また個人的にストレスのかかる仕事であるかを、お互に経験を話し合いました。企業を永遠に発展させるためには「志高く難問に挑戦する有言実行の人間をいかに育てるか」と言う教育論の話になり、それは「On the job training」でしかないのではないかと言う結論になったと思います。何事もそうですが、特に教育の問題に対しては「SHOULD」が高く全世界に彼の思いを引き継いでいる人たちが育っていると確信しております。

 納骨の日、息子さんの挨拶に、父親の机の中を整理していたら「人間は死んでも魂はこの世に残ると言われるが、それは火葬で固体はなくなるが燃焼時発生する水や炭酸ガスの水素や炭素原子がこの世に存在すると言うことか」と言うメモが有ったことを紹介されました。確かにそうだと思う一方、この世では二度と会えなくなって淋しい限りです。

 今でも想いだすが、長い付き合いの間、君と会ってお話をすると、いつも爽やかな感じで、元気づけられたことも何回もありました。ようやく会社の重責から解放され、自由の身になり、新しいチェロを購入したばかりだと聞いている。我々も君が自由な身になるのを待っていたのに、もう話ができないのはさびしく、本当に残念です。そのうち我々もそちらへ行きます。また会える日を楽しみに、それまで安らかに眠って下さい。奥様、お子様達のご健勝を祈念し、鶴田治樹君のご冥福をお祈り申し上げます。

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尊敬する先輩鶴田さんを偲んで


百足 嘉魏


 無二の会(旧向井研)連絡で、尊敬する先輩鶴田さんが平成20年2月22日に亡くなったとの訃報メールを受取った。2年前の年賀状に「同じ胃がんで手術をした」との添書きがあったので、慌ててご自宅にTELをして「担当医と相談してきたが、もう手術しなさいと言われ、全摘手術」をした事、そして後遺症の腸閉塞で一度ならず救急車のお世話になったことも伺った。しかし、「もうお酒を飲んでいるよ」との一言も伺ったので、病魔が深刻な状況に進んでいる事は全く知らないでいた。今年の年賀状には添書きが無かったが、四人目のお孫さんの誕生が書かれていたので、お孫さんを抱いている姿さえ想像していた。

 鶴田さんには、向井先生が教授に昇進した後の4年生後半から修士修了までの約2年半を同じ部屋で文字通り公私共にお世話になった。最初にご指導いただいたテーマは「1,3-ジアザ-アズレンのグリニア反応」であった。この化合物は非常に鼻を刺激してクシャミを連発するもので、取扱いには其れなりの準備態勢をしていた。鶴田さんは殊の外この化合物に敏感で、実験室の対角線の位置でソッとデシケーターの蓋をスライドさせると、早速クシャミをして私の「実験開始」を感知されていた。実験結果も旨くまとまり、鶴田さんの博士論文の一章となったが、最初に書いた私の論文原稿はユーブング・レポートの延長的なものだったのを、1,2日で手本となる手書きの論文に書き直して頂いた。それは、その後の学士・修士論文だけでなく、会社に入ってからも実験報告書の基本形と成っていた。

 在学中の楽しい思い出を列挙すると、1)第1回野副杯の優勝は、鶴田プレーイング監督の時だった。2)亘理鳥の海での大量潮干狩りには、新婚間もないご夫妻で参加されて楽しそうだった。(奥様も覚えておられた。)3)有機第一コンサート?ではチェロの演奏を聞かせていただいた。4)講座行事の登山・海釣りそして飲み会などなど、走馬灯のように思い出される。

 就職後は、七友会(旧野副研)そして無二の会(旧向井研)に続いた集まりに出席してお会いしたが、偉い先生方にお会いする事より、本音は鶴田さんと久し振りにお話することの方が楽しみだったと記憶している。

 鶴田さんは、高砂香料社の研究開発リーダーとしての要職を辞してユックリする間も無く、約3年間の闘病生活を送られ旅立って仕舞われた。ご冥福をお祈りしますという筆のおき方ではなく、「千の風になって」の詩を信じて「ゆっくり行きたい所を楽しまれて欲しい」事を祈って止まない。そして、ゆっくりお休みください。

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鶴田治樹さんの追憶(東北大在職中の思い出)


向井 利夫


 高砂香料元専務鶴田治樹さんが2月22日他界された。まだまだ活躍を期待していたのに残念である。同君は昭和36年野副研究室の卒業。私は卒論の指導を野副先生に頼まれたが、前年11月、MITの留学から帰国したばかり、まだ落ちつかず、どんな指導をしたかよく覚えていない。鶴田さんはそのまま大学院に進学し、主にトロポロン関係の仕事(?)で昭和41年3月、理学博士の学位をとられた。私は昭和39年有機第一講座を引き継ぐが、鶴田さんには昭和41年4月助手になってもらい、不飽和七員環化合物の熱分解反応の研究をやってもらったが、なかなか良い結果が出なかったので、やむなく、光、熱分解との関連付けとして、質量分析討論会で発表してもらった苦い想い出がある。こんな中、研究の転機はトロピルアセトアルデヒドのヒドラゾンの熱分解でもたらされた(J. Am. Chem. Soc., Vol 90, 1968年, 7167頁)。 この研究では予期しない、いくつかの化合物が取り出され、それらの光および熱反応によって、C9H10系炭化水素の新局面が展開することになる。この研究が基となって、鶴田さんは日本化学会第21回進歩賞(昭和47年)を受賞された。その頃、同じ様な研究で、私の記憶に間違いが無ければ、北原研の浅尾、小田組と鶴田、倉林組が競合したことがある、懐かしい思い出である。その後C9H10関連の研究は熊谷勉君らによって引き継がれ拡張された(有機合成化学協会誌 32巻、496頁 1974年)。また大阪大学の村橋俊一教授らとの新規求核性カルベン、バルバラリリデンに関する共同研究も行はれた(Chem. Lett. 1974年,1497頁)。

 昭和43年9月から2年間、鶴田さんは夫人同伴でコーネル大学Meinwald 教授のところに留学する。2年目は休職になってもらって、倉レをやめて研究室に戻っていた宮仕さんに助手になってもらった。私は昭和45年7月、サンモリツツで開催された第3回IUPAC光化学シンポジウムに招待講演者として選ばれたが、都合があって参加できなかった。代わりに滞米中の鶴田さんに出席をお願いした。その際,鶴田さん夫妻はスイスの滞在を充分エンジョイされたようである。この年、こんどは宮仕さんに休職になってもらい、入れ替わりに鶴田さんに助手の席に戻ってもらう。宮仕さんは4年にわたるアメリカ、ドイツへの留学に出かける。

 昭和49年4月になって、諸般の情勢から、鶴田さんは高砂香料に転出することになった。ここでまた、Vogel教授のところでフンボルト財団研究員であった宮仕さんに任期途中ではあったが、同教授の許しを得て日本に帰ってもらい、鶴田さんの後を引き継いでもらう。随分無理な研究室の運営をしたわけだが、この様なやりくりは鶴田、宮仕さんの相互の信頼があってはじめて、実行出来たのであり、当時の苦境を思い出しながら、Vogel教授の寛容と両君の理解に今でも感謝している。

 高砂香料転出後の鶴田さんの活躍、専務までの昇進の様子は同級生の宮島、中沢、根本君の追悼文の中で述べられているので、私は省略する。 5月28日、高輪プリンスホテルに於いて、高砂の武社長、野依良治さんが発起人になって、故人を偲ぶ会がもたれた。大学関係者からは村橋さんなど著名な人々が参列された。また、東北大関係では同級生、知友のほか指導を受けた卒業生15人ほどが出席した。この人数の多さは研究室時代、学生から絶大な尊敬のあった証拠であり、鶴田さんの魅力、人徳、育ちの良さを示すものである。また、鶴田さんは外見、飄々としていたが、律儀な一面を持っていた。私のメールに対しては死の直前まで欠かさず返事をくれた。平成18年9月11日午前、病をおして、奥さん同伴で拙宅を訪問して頂いたが、思ったより元気で安堵して、家内を入れて楽しく歓談することが出来た。帰りは仙台港から横浜港までフェリー。今思うと、仙台への惜別と私に対する挨拶であったのだろうか。当日午後は光化学討論会30周年記念で来仙されていた田中郁三さんと小泉正夫先生の奥さんとの会食もあったので、私にとっては忘れがたい一日となった。

 思い出をもう一つ加えさせてもらうならば、東北化学ゴルフ同好会がある。最近までの20年間、欠かさず毎年8月下旬、主に青葉山ゴルフ場に教室出身の有志が集まりコンペを開いた。鶴田さんは皆勤、スポンサーになって会社の香水を賞品として持参してくれた。平成13年の写真をここに掲げる。 鶴田さんと昨年12月亡くなった松本克彦さんの姿も見られる。参加者は、後列左から 藤沢(s28卒) 山下(s48) 鶴田(s36) 天野(s24) 島崎(s37) 松本(s28新制) 前列左から 伊藤(s41) 遠藤(s43) 向井(s22) 赤崎(s43修)。 同好会の皆さんも在りし日のご両人を偲び、惜別の情をもって、ご冥福を祈ってくださるでしょう。終わりに合掌して追悼文の筆を擱きます。

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