東北化学多士済々
「有機化学から神経科学・癌科学へ」 大沼 信一(University College London教授) 昭和61年卒
「ニッポニウムの見直し」 吉原 賢二(東北大学名誉教授) 昭和28年9月卒(旧制)
「大学院博士課程修了から半世紀」 申 在均(朝鮮大学校元教授(理学博士)) 昭和28年卒
「人類が豊かで健康に生き続けるために」橋本 功二(東北大学名誉教授・東北工業大学名誉教授) 昭和35年修
「私の遍歴」青野 茂行(金沢大学名誉教授) 昭和22年9月卒
有機化学から神経科学・癌科学へ
大沼 信一(University College London教授) 昭和61年卒
東北大学化学系1986年卒の大沼です。私は山本嘉則研の第一期生にあたりますが、実際は助教授であった加藤忠弘先生と現在近大にいる山口先生の指導を受け卒業しました。ただ、卒業後は殆ど音信不通で、かつ分野的にも地理的にも非常に離れたところにいますので、多分山本研の卒業生の中で最も不肖の卒業生だと思います。今回は東北大学化学同窓会から依頼を受け、これからの若手の研究者に少しでも参考になればと思い、現在の研究に至った経緯と今後の目標ついて書かせていただきます。
現在の研究とこれまでの経緯
我々の現在の研究は3つの分野(眼科学、癌科学、発生生物学)を融合させた領域に基盤を置いています。University College LondonではInstitute of Ophthalmologyに属していおり、 Ophthalmologyといっても意味が分からない人が多いと思いますが、日本語で眼科学に相当し、ここでは目や脳の発生について研究を行っています。また、University of CambridgeではDepartment of Oncologyに属し癌の研究を行っています。この二つの研究分野はかなり違う分野のように感じる人が多いとは思いますが、生物の発生という共通の基盤を持っており、我々は小さな実験動物を用いた発生生物学の分野の研究をとおして眼や癌のできかたの機構を総合的に理解することを目的としています。また、これらは東北大学化学科で指導を受けた有機化学とはだいぶ違うように見えますが、我々の研究の基盤は有機化学にあり、常に分子という視点から理解を目指しています。
私は、山本研卒業後、大学院は当時非水研の小倉協三研に進み、プレニルトランスフェラーゼという酵素について生物有機化学的視点から研究を行いました。その後は東北大学に遺伝子実験施設で遺伝子組み換え実験を学んだ後、東北大学工学部に新しくできた生物化学工学の西野徳三研の助手として採用され、その後7年間は 試験管内で天然ゴムを作ることを目指したバイオテクノロジー的研究を行いました。この間、いつかは海外で研究を行いたいという思いが強く、研究が一段落した5年目あたりから留学先を探し始めました。
海外留学先は脳神経がどのようにできてくるかを研究するDevelopmental Neurobiologyという分野の中で探し、University of California, San DiegoのProf. Christine Holtの研究室に留学しました。全く未知の分野なので多くの神経関係の第一人者に手紙を書き、その中でもっとも親身な返事をもらった研究室を選びました。その際は数回の電子メールでのやり取りのみで、給料や期間の打ち合わせなしで渡米しました。この選択はいま考えてみると大胆ですが、信頼できるかというその時の判断は間違っていませんでした。
渡米一年後、 Prof. Christine Holtの夫君であるProf. William Harrisがケンブリッジ大学に解剖学部のヘッドとして迎えられることとなり、それとともにイギリスに移りました。その3年後にケンブリッジ大学に癌学部に新しくできたHutchison/MRC Research Centreでグループリーダーとして独立しました。その後2007年9月にロンドン大学の中核であるUniversity College LondonのInstitute of Ophthalmologyに教授としてむかえていただき、現在はロンドン大学とケンブリッジ大学で兼任という形に至っています。
今年で、化学科で研究を始めてから23年になり、 その間、理学部化学科、非水研、農学部遺伝子実験施設、工学部生物化学工学科、UCSD Department of Biology, University of Cambridge Department of Anatomy, Department of Oncology, University College London Institute of Ophthalmologyと約3年毎に研究分野と研究室を変え、新しい研究室の立ち上げも4度関与しました。いずれの研究歴も非常にエキサイティングで研究を楽しむことができました。常に本当に自分が行うべき研究は何かと自問したことと、新しい分野への欲求を抑えることができなかったことの結果がこのような経歴に結びつきました。また、化学系で身に付けた 科学の問題に対する普遍的方法論と論理的思考が、研究分野を変え、その中で自己を確立するために大きく貢献しています。
今後の目標
これまでの20数年研究を経て、やっと自分の人生を懸けたいものが見えてきました。“脳を創る”ということと“癌を治す”というのが現在の2つの目標です。
脳を創る:我々の脳は発生の過程でゆっくりと細胞分裂を行う神経幹細胞やその後盛んに細胞分裂を行う神経前駆細胞を経て分化した細胞分裂を停止した多種の神経細胞やグリア細胞が作り出され、これらが適切なネットワークを作り出すことによって形成されます。これらは非常に多くのプロセスの連続的な調和によりなされており、個々のプロセスに関与する分子の機能については過去20年程の間の膨大な研究により多くのことが明らかになりました。しかし、連続的な調和がどのように成し遂げられているかはやっとわかり始めた段階です。特に、細胞分裂制御は神経発生のプロセスと協調しなければ、正常な数の神経細胞は生まれてきません、また、脳の全体的構造も、さらに、神経のネットワークの形成もおかしくなります。我々はこの細胞分裂と分化の協調性の理解をとおして、神経幹細胞等から実際の機能的な脳を作り出すことを目指して研究を行っています。
癌を治す:全ての癌に共通することは、これらガン化した細胞は正常組織の恒常性を破って異常増殖をしているということです。従って、いくら遺伝子に変異が入っても、その変異が生物の発生や組織維持の恒常性を破壊することができなければ癌は発生できません。このことは、発生に重要な役割をはたしている細胞の情報伝達経路全てがガン化に関与していること、また、ガン遺伝子やガン抑制遺伝子のほとんどが発生に於ける機能を持っていることからも明らかです。従って、我々は、癌は発生の恒常性が維持できなった疾病と考えています。そこで、発生に強い影響を与える遺伝子があれば、それらはガン化に関与している可能性が高いと考え、発生生物学を用いた新しい遺伝子の探索とその遺伝子の機能解析により、癌かが起こり進展する機構を明らかにし、最終的にはこれらの研究を実際の治療に結びつけることを目指しています。
イギリスの特にロンドンを中心とした研究環境は、理想的で、発生生物学、神経科学、癌科学いずれにおいても世界的な拠点を形成しています。この非常に恵まれた環境の中で、他の多くの研究者とともに、 今後の20年程の研究生活の中でこの二つの問題にできる限り貢献できればと考えています。
また、現在の我々の基盤は発生生物学です。しかし、全ての生物学は有機化学に基づきます。現状ではこれらの分野は離れていますが、今後20年でこれらの分野は同じ言語で理解する時代がくるのは疑いありません。発生生物学は今爆発的に発展している分野の一つです。その中で我々は分子という視点を失わず、その深い理解を目指しています。
若い人への期待
海外から見て東北大学の有機化学は明らかに世界をリードしている拠点の一つです。また、それに基づいた化学教育も一流です。従って海外にでて化学を学ぶという必要性はなくなってきています。しかし、一つ劣っている点があります。これは日本の科学一般にいえますが、それは真の国際性です。アメリカやイギリスでは科学の世界に於いて人種差別は全くありません。重要なことは科学者としての力量です。現在、海外の殆どの一流の大学の学部や研究所には中国系とインド系の教授が必ずいます。しかし日本人の教授は非常に限られています。過去20年の間に日本国内で科学の世界的優位を享受している間に、一挙にこれら発展途上大国に追い抜かれてしまいました。多分これは日本の国の国際戦略の弱さと日本の地理的または言語文化的環境を反映していると思います。いま、これら中国系やインド系の科学者は母国の科学の発展を担っています。私は、日本の研究者が、是非、積極的に海外に出て研究室を持ちそこで自分の研究を確立し科学に貢献することを期待します。そして将来的には日本の国際性の発展のために積極的に寄与してほしい。特に若い人材が海外に出ることは重要です。私の経験から、日本の若手の研究者が海外で独立するのは日本で独立するよりかなり容易です。大学院からポスドク時代をとおして5〜6報の論文があれば十分可能です。独立すれば、自分の研究を自分の責任のもと楽しむことができます。このためには以下のことが重要だと思います。これは日本と海外とで違いはないと思いますが、特に目標設定と時間のコントロールをうまく行えれば可能性はさらに広がると思います。
1、大きな目標/夢を設定し、そのためには何が必要かよく考える。
2、現在の研究テーマに全力を尽くし、よく考え、その専門家になる。
3、論理的思考とその表現法を身につける。
4、常に、自分の属しているグループのために最大限貢献する。
5、時間をコントロールする。
6、研究を楽しむ。
また、言葉の壁を気にする人がいますが、はじめは殆どはなせなくても自然に習得できるものです。日本語で論理的に話すことができれば全く問題ありません。
私が学生の頃、東北大学化学系出身のコロンビア大学の中西香爾先生など海外で活躍する先生に憧れていました。今後その数がさらに増え、 海外の主要な大学で多くの東北大学化学系の出身者が活躍する日が来ることを期待しています。
ニッポニウムの見直し
吉原 賢二(東北大学名誉教授) 昭和28年9月卒(旧制)
創立百年の2007年、東北大学はこれを記念する行事を盛大におこなった。創立といっても東北大学の理科大学が仙台で開講するのは少しあとの1911年になるのだが、その時の理科大学長は化学の小川正孝教授であった。人も知るように彼はニッポニウム発見で東京化学会(現在の日本化学会)桜井褒賞の第一回受賞者として有名だった。
しかしニッポニウムはその後幻の元素とされ、ほとんど顧みられなかった。私はニッポニウムの実体は75番元素で、現在のレニウムと同一であることを考証し、小川博士の名誉をすこしでも回復することに努めた。これについては拙著『化学者たちのセレンディピティー ノーベル賞への道のり』(東北大学出版会、2006)に記してあり、その他英文で4編の論文を書き、内容は英国BBC放送はじめドイツ、オランダ、その他欧米の事典などに採用されている。元素発見の先駆者としての地位が確保できたことになる。
なぜ小川はラムゼイのもとであれほど努力したのに惜しいところで栄光を逃したか、それについても歴史的な資料の発見があったのでここで触れておくのも意義のないことではあるまい。
小川がロンドン大学のラムゼイのもとでニッポニウムの研究をした1904年当時、まだ元素の周期表にはいくつかの空欄が残っており、ラムゼイの希ガス発見により整理が進んでいたとはいえ、難問もあった。ひとつはアルゴンとカリウムの原子量の逆転である。また原子量が酸素を16として、整数にならず中途半端な数になることである。
元素を原子量順に並べると性質の似た元素が周期的に現われるというのがメンデレーエフの周期律であり、これを基礎として今日の周期表が発展してきたことは化学の初歩の知識である。しかしなぜ原子量が元素の性質を決める上で重要なのか、化学者たちは手探りの状態だった。後になってニールス・ボーアの原子構造論が提案され、さらに1913年にモーズリーの原子番号の概念が提案されるようになって初めて周期表の物理的意味付けができる。原子の種類すなわち元素を決めるのは原子核の外側の電子の性質である。
1900年台当時の化学者たちはそんなことまで分からないので元素の周期表に新元素を入れるには原子量を精確に決めるほかなかった。微量の新元素を正確に測ることは大変な仕事だった。そればかりか、初歩の化学で習うように原子には原子価があって高い原子価の原子は複数の相手の原子と原子価のバランスをとるように結合する。化学反応をいくつか試みて原子価を決めないと原子量も決まらない。小川のニッポニウムは7族のマンガンの下に来ると彼は考えたのだが、ここはいくつかの原子価の存在が予想される。
普通の実験で得られるのは 原子量÷原子価=化学当量 である。したがって 化学当量×原子価=原子量 の式を使って、化学当量に原子価をかけて原子量を決めなければならない。小川は化学当量を50として原子価2の仮定で原子量100としたのであった。しかし現代の知識ではこれはまずい。ニッポニウム(元素記号Npとすると)の場合6価で酸素を含むNpOCl4の生成を考えなければならない。それを考慮に入れた原子量は185.2となる。この値はレニウムの原子量186.2とほぼ一致するのである。
実は小川はラムゼイに少し違った考え方を報告していたらしいのだ。そのことは最近のダイバースから桜井錠二への手紙の発見によって分かった。ダイバースは東京帝国大学の外人教師として小川正孝を指導した小川の恩師であった。彼は小川がロンドンに来る前に東大をやめてロンドンに帰っており、小川の仕事に興味をもって、時々アドバイスをしていたらしい。手紙にはラムゼイの考えに反対し、自らラムゼイのもとに出かけていって意見を述べたとある。結論が早すぎるということであり、もっと高次の酸化物を研究することで問題を決着させるのがよいということであった。現在からはダイバースの意見はまことにもっともであった。ダイバースは酸化物や過酸化物の研究では豊富な経験を持っており、自信があったのであろう。この場合高次の酸化物は過レニウム酸の無水物であるが、それを研究すれば原子量100が修正されなければならないことはすぐに分かったであろう。小川のニッポニウムの周期表の位置は修正されて、正しい位置に置かれたかもしれない。
化学史などは現役の化学者には無関係で、老人のやることだと思っている人もいるかも知れないが。それは違う。先人の労苦には学ぶべき点が多いことは事実である。
以上小川正孝のニッポニウム研究について述べたが大変面白い事実がつぎつぎに分かって来た。それが最近の化学史研究の最前線である。私は本年化学史学会の学術賞を受賞することになって、小川の労苦を偲び、小川が明治日本のいかに優れた化学者であったかをあらためて思い知らされたのであった。
大学院博士課程修了から半世紀
申 在均(朝鮮大学校元教授(理学博士)) 昭和28年卒
私が1958年3月新制第1回の大学院博士課程を修了し、想い出深い仙台の地を離れて半世紀の歳月が流れた。
1948年4月、旧制二高理科に入学した私が体験した立田晴雄先生のはじめての型破りの有機化学の講義―いくつかのアルコールのサンプルを示しながらエチルアルコールは飲むと酔っていい気分になるが、メチルアルコールは飲むと酔った気にはなるが失明して死んでしまう。有機化合物のちょっとした構造の違いしかないのだが―に魅せられ有機化学に興味をもってから60年。 そして新制の第1回の東北大学理学部化学科と大学院に進学して、野副鉄男先生と北原喜男先生からトロポイド化学の指導を受けてから半世紀におよぶが、未だに有機合成化学との因縁が切れないでいるのが、喜寿を迎えても生き甲斐になっているようだ・・・。
大学院終了後、在日朝鮮人同胞の民主主義民族教育の最高学府として東京に創立されたで教職につき、40年間にわたり在日同胞子弟たちを有能な民族幹部、学校教員と科学技術人材に育成するため努力してきたが、10年前に定年退職した。またその間、共和国との学術交流にも取組み、おもに共和国科学院ハムフン分院有機化学研究所とハムフン合成医薬研究所との精密有機合成化学分野での共同研究に参加し、機能性材料(染料、感光剤)・除草剤・ジェネリック医薬品(ニュ−キノロン系抗菌剤、ジヒドロピリジン系血圧降下剤)などの研究・開発で成果をあげることができた。
ところで定年退職後古希を迎え、日本の『社団法人有機合成化学協会の永年会員』に推薦されたのを契機としてはじめた、『有機合成化学協会誌』に掲載された優れた興味ある論文をハングルに翻訳して北(共和国)、南(韓国)それに在中国をはじめ海外同胞の有機合成化学者たちに紹介する作業―ワープロでハングルに翻訳した論文を10数部プリントし、知人に配布する―であるが、それが私の老後でそれなりの知的な好奇心を満たし、あたかも自分で体験したような充足感をあたえてくれる大きな生き甲斐となっているようだ。近年の有機合成化学の世界とは・・・ありきたりの素材から出発して多種多様な道具を用い、加工しながらおとぎの国にあるような奇想天外な建物や機能を備えた装置をつくりだす魔女の手法に満ちた、鏡の国のアリスしか経験できなかったような鏡像の世界・・・であり、まるで魔法にかけられているように童話の世界に夢中になった子供の時代を髣髴とさせているような気がした。
このような独り善がりの気分に浸りながら、翻訳論文集も16号を数えたが、2007年5月に発行された『有機合成化学協会誌特集号―全合成の最近の話題』のハングルへ翻訳する第16号の編集も本当に楽しい仕事だった。私の実力不足から正確な理解をうることと誤訳の心配でとても苦労したのも事実であるが・・・。
その中で『メリラクトンAの全合成:遠隔不斉誘導と不斉非対称化』の著者らは―わが同窓の平間正博教授一門であるが―中国産シキミ科植物の果実から単離・構造決定された、難病といわれるアルツハイマー病やパーキンソン病に代表される神経性疾患の治療と予防に効果があると期待されるメリラクトンAの全合成に挑んだ。彼らは縮環天然物の構造の中に隠されている対称性を利用する基本合成戦略のもと、メリラクトンAの効率的合成法となる、新しい概念に基づいて二つの不斉合成ルートの開発に成功し、ここで『遠隔不斉誘導』と『不斉非対称化』なる新しいキーワードを提唱した。対称性のある紙を使い、折り紙細工を繰り返しながらいつの間にか、それを不斉炭素や鏡像体に変えてしまう、まるで魔法のような手法に驚かせられた。1980年代に立体制御が困難であるとされていた、グニャグニャと動き回る脂肪族カルボニル化合物のアルドール反応に対する画期的立体制御の方法論が見出され、その後の立体化学や不斉合成の発展に大きく寄与したが―わが同窓の先輩であるMITの正宗悟先生が大きく貢献したと私は記憶している―そのようなインパクトをあたえるのか、今後の進展を見守りたい。因みに平間教授一門の『海洋毒シガトキシンの全合成』をはじめ『有機合成力』のダイナミズムを誇示した研究成果も同窓として誇らしく思っている。
21世紀を迎え、私は有機合成化学分野での日本の逞しい底力と有能な若手科学者達がすくすくと育っている頼もしさを垣間見たような気がする。『日本化学100年史』(日本化学会)によると、ドイツ留学を終えて帰国した、真島利行(理学―ウルシ成分研究)、朝比奈泰彦(薬学―漢薬成分研究)、鈴木梅太郎(農学―ビタミン研究)の三大巨匠により大正時代に日本の天然物化学の研究が本格的になり華々しく開花したという。日本の有機合成化学分野もこの歴史的な流れに沿って、また現在、一つの黄金期を迎えているものと当事者たちは自負しているものと私は率直に感じ取っている。
もちろん在日朝鮮同胞二世の一人として、民族的、政治的、歴史的、心情的に日本との関係で錯雑とからみあった問題点を一遍に払拭することはできないにしても、日本で生まれ、学んだ在日同胞有機合成化学者の端くれとして、これからも今までのように、日本の動向と研究成果に大きな関心をもち、それから多くのことを学び取ることにやぶさかでなく、機会があれば交流の場を開くことができるよう、北(共和国)と南(韓国)、それに在中国の研究者たちに呼びかけたいと思っている。
一つだけ付け加える。やはり古希を迎えてから在日同胞有志たちと『丹精会』なる同人の集いをつくり、定期的に学習と見学・鑑賞、それに飲み会を行い、年1回同人誌『丹青』を発刊している。この同人誌に『薩摩の朝鮮人陶工が開いた「樟脳」の道とテルペンの話』(第5号)と『朝鮮王朝の賜薬(死薬)と薬学者・都逢渉先生について』(第6号)を発表したが、多くの人士たちに関心を持って読まれているようである。
2008年 9月
人類が豊かで健康に生き続けるために
橋本 功二(東北大学名誉教授・東北工業大学名誉教授) 昭和35年修
1960年安積宏先生の研究室で修士課程を修了して、金属材料研究所の助手となり、助教授、教授を経て1999年に退官しましたが、まだ現役を続けています.
アメリカ合衆国エネルギー省はエネルギーに関連する世界のいろいろなデーターを発表しています.これによると世界の一次エネルギー消費量は1990年から2005年の15年間に、年平均1.0193倍ずつ増え続け、特に2002年以降の伸びは急激です.一方、2005年には世界の人口の77.3%を占める途上国に比べ、16.4%の先進国の一人当たりのエネルギー消費量は5.9倍でした。先進国が途上国に省エネルギー技術を伝えると言っても、これはいわば総量では5.9倍のエネルギーを豊かな生活のために使うことですから、エネルギー需要の急速な伸びは避けられません.世界のエネルギー消費が今後も毎年1.0193倍ずつ増え続けると仮定し、これまでの世界の一次エネルギー供給の割合で、エネルギー需要に応えて行くと、世界の石油埋蔵量は2034年までに使い尽くされ、その後天然ガスとウランがなくなるのが2040年、後は石炭だけで過ごせるのは2054年までです.新しい燃料を2005年当時の世界の石油埋蔵量分くらい見つけても、2054年から先の空白をほとんど埋められません.実際には産油国は、外国に売り続けたのでは自分が生き延びられませんので、近い将来世界への石油の供給量は減り始めるでしょう.その上、化石燃料の消費はそのまま二酸化炭素の排出につながります.燃やすものがないのに温暖化は堪え難いというような、悲惨な状態の到来を避けるためには、再生可能エネルギーだけで、世界が生きることができる技術を早急に確立して世界に普及する必要があります.
産業、運輸、業務、市民生活などに膨大なエネルギーを世界は必要とします.これには、砂漠などの太陽エネルギーを運んでこなければなりません.実際には、2005年の全世界のエネルギー消費量488.280 x 1015 kJを砂漠に置いた太陽電池で賄おうとすると、エネルギー変換効率15%で1日8時間働かせる場合、必要な砂漠の面積は、世界の主な砂漠の面積のわずか1.92%です.
そこで、私たちは20年ほど前から、再生可能エネルギーを世界に供給するグローバル二酸化炭素リサイクルを提案し、必要な材料とシステムの研究を行ってきました.再生可能エネルギーが大量に得られる所は砂漠や洋上など遠方の地ですから、その場で変動する電力に変えても既設の送電網では受けられませんので、砂漠沿岸や洋上で海水電解によって水素を造ることを考えました.しかし、水素を運んだり燃やしたりするインフラは世界にはありません.これを開発し世界に普及するのは不可能ですから、水素のままでは、世界の主要な燃料とはなり得ません.そこで、この水素を二酸化炭素と反応させてメタンに変えることにしました.メタンは、世界で消費される一次エネルギーの4分の1弱に当る天然ガスの主成分ですので、輸送と燃焼のインフラは世界中にあります。太陽エネルギーをメタンの形で供給すれば現在のインフラで使え、煙突で二酸化炭素を回収して砂漠沿岸や洋上に送り返せば、また二酸化炭素に太陽エネルギーをのせてメタンの形で供給できます.
グローバル二酸化炭素リサイクルで産業になっていない要素システムは海水電解による水素製造と二酸化炭素のメタン化で、これらに必要な材料とシステムの研究を行ってきました。中には海水電解で塩素を発生せずに酸素のみを発生する陽極も含まれます.これらの研究成果で、1995年には,金研の屋上に太陽電池発電から始まる実証プラントを造り、2003年には、海水電解と二酸化炭素メタン化の産業規模のプラントを、退官後移った先の東北工業大学に造ることができました.
エネルギーを変換するたびにお金がかかりますから、再生可能エネルギー起源のメタンは、天然ガスよりかなり高く、まだ産業になっていません。メタンの値段を下げるため、電極の効率を上げてエネルギー消費を下げ、耐久性や触媒の効率をあげて生産能力を上げ、多量に存在する安い元素を使うなどの努力をしています.
私は東北工業大学でも既に名誉教授ですが、沢山の仲間達のおかげで、まだ企業から給料までいただいて、東北工業大学のスタッフ、学生、内外の研究員などと一緒に研究を続けています.仲間達に恵まれていることに感謝の毎日です.
洞爺湖サミットの言う世界の二酸化炭素排出量を半分にするということは、2005年を基準に一人当たりにすると、日本人は20%しかエネルギーを使ってはいけないということです.再生可能エネルギーを供給しないと、生きて行くことも難しくなります.私どもは、これが当面最良の方法と考えていますが、他のどのような方法でも、再生可能エネルギーを供給するために、施設の製造、設置や運転に使われるエネルギーに比べ、得られるエネルギーが十分大きいと思われる方法であれば、ぜひ、実用化に努力することが重要です.
ご関心のある方々が、URL をご覧くださり、またメールをくだされば幸いです.
URL: http://www15.ocn.ne.jp/~hashico2/, E-mail: koji@imr.tohoku.ac.jp
私の遍歴
青野 茂行(金沢大学名誉教授) 昭和22年9月卒
化学教室 80年記念の同窓会誌に安積さんから同様な記事を依頼された。
そのとき試みたことは、22年の私の級友が化学教室空前の秀才であったということである。しかし、同窓の面々はいささか反対にとったようである。
1.仙台、それから
卒業のとき、お前の様なヤツは教室にいないほうが良い、といわれた。
波動関数とか、プサイというやつは無頼であった。私は仙台を去った。
10年余りして学位を頂いた。主査の安積先生は "対数計算もできなかったお前が量子力学とはな "。 私はほうほうの体で逃げ出した。片桐先生を訪問した。私の学位論文を読んでおられるらしい。ぼろが出ないうちに逃げ出す。羽里先生のところによる。先生は、環電流の反磁性効果を計算しておられた。私は Londonの理論にしどろもどろであった。そのうちに先生のところに NMR40メガが入った。磯部先生にエチルアルコールのチャートを見せてもらった。量子力学そのものである。
東京へ出て、図らずも杉浦義勝先生にお会いした。物理に入り直そうかとお話しすると、
"君、大学のくだらなさは 3年やってわかったろう、私のところのセミナーに来たら "。
杉浦義勝さんは、 Heitler-London-Sugiuraで有名である。後年、 Minneapolisで先生の話が出たとき、私はスギウラのcorrect pronunciationを知っているといわれた。先生の部屋に出かけた。最初に出会った論文は、Pauli, Weisskophの scalar fieldのquantization、続いて Feynman, Dyson, Schwinger。私がどんな秀才でも分る訳がない。
しかし、これで、朝永さんを含めて彼らに対する恐怖心はなくなった。
反対に彼らの手法がやがて私の研究手段になった。
Feynmanは後に金沢大学の私の研究室に寄ってくれた。京大で行われたメソン30(周年)の途中から会議をさぼって、能登を見に来たらしい。
基礎物理研の牧さんから電話が来た。彼は謝金を受け取らないので、"アオノさん説得してくれ"。私と牧さん英語では困難である。すると、"gift"という奥さんの一言で解決した。 Feynmanはサインする、そして謝金は基研に giftする。
彼が帰るときにお礼をいった。
"わざわざ寄ってくれて有難う。学生が持ってきた貴方の本にサインまでしてくれた。彼らは貴方の本を宝にするだろう"彼は、ちょっと考えて "アオノ、それは間違っているよ。本当の宝は、私のサインした次のページから始まる、量子力学が・・・・"。
私は答えた"よく分かった"。 次の日、私は講義の冒頭でそれを学生に伝えた。期せずして拍手が起こった。
2.遍歴
1961年、Sanibel島の conferenceで Rudenbergがとんでもないことを言い出した。
"化学結合は、運動のエネルギーが負に、ポテンシャルが正になることで生じる"。
Löwdinが猛烈に噛み付いた。
"Kinetic energy p is positive definite・・・・
化学結合に対する Heisenbergの描像は very clear、ΔE = JS・ S
Do you know exchange integral? "
すると、Rudenbergは答えた、"Exchange integral? I don't know, it's mathematical trick."
さてどちらが正しいか。Rudenbergである。彼はエネルギーの評価を atomを基準にして行う。そうすれば、virial定理(exact)が如実に上のことを語っている。ついでに一言する。化学結合は、電子密度が結合領域にあつまり、両方の原子核を引っ張っているというのも間違いである。
結合領域では電子密度がむしろ減少している、しかし干渉による波は中央では flatになっており、運動エネルギーの減少をきたす。
いろいろ論文を読んでは見たが、一番感心したのは、1946年の Coulsonの論文である。Hamiltonianが与えられたとする、言い換えればエネルギー行列が与えたとする。そうすれば、その関数解析により、量子化学的性質は総て導き出せる。Schrödinger方程式を経由する必要はない! 極めて芸術的である。
私は 1,970年近くになってこれがGreen関数、Feynmanのいう propagatorであることを知った。それが満たす方程式がDyson方程式である。それを使ってWoodward-Hoffmann-福井の理論を elegantに作り変えた。
私の部屋に頭の悪い学生がいた。理論を教えると、三つ目の式が来ると、初めの式は忘れてしまう。仕方がないので、上の理論の結果だけを教えて、それで向井研の光化学の実験の解析をしてもらった。三つもやれば、修士はくれるつもりでいた。
ところが 30ほどの実験結果を総て解析し、結果は OK、それを 100ページ余りの論文にして持ってきた。私は彼の下手な英語に付き合うのに疲れ果てた。すごいやつがいたものである。
量子化学の初期は計算オリンピックである。水素分子の解離エネルギーは、4.15eV。Heitler-London-杉浦の結果は 3.14eV。それからは,実験値へ向ってまっしぐらである。
MinneapolisにはCDCがあった。Seymour Crayがいて、CDC1604というすばらしい計算機を使うことができた。しかし私は彼とはすれ違っていて言葉を交わしたことがない。私の千載の恨みである。彼はクルマの事故で死んでしまった。私より一つ若い。
東大に超大型機なるものがはいったので某氏の説明を聞きにいった。えらそうな顔をしてぶっている。質問した"・さん、 OSってなんですか"。
彼は眼をむいて"金沢大学の先生は OSもしらない"。次に九大のタケダさんが質問した、"TSSってなんですか"。これには満場が爆笑した。後でタケダさんに聞いてみた、"本当に知らなかったのですか"、 "知りませんでした"。
人々は、アオノとタケダがはったり男を冷やかしたと思っていた。
電子状態理論がどうも不満である。アップスピンダウンスピンがあるといいながら両者を別々に扱って後で加ええる。両者は一体として扱うべきではないか。電子は spinorである。スピンからくる異常磁気能率を持っている。Schrödinger方程式からこれは出てこない。
Diracは一足飛びに 4次元理論を作ってしまってこれを解決した。しかし相対論は量子化学に重要だとは思われないから、非相対論的なスピナー理論をつくってみた。これは Pauli方程式である。そうすると電子の異常磁気能率はOKである( Feynman)。さらにスピン空間に off-diagonalの長距離秩序ができて、これが超伝導状態の正体だということになる。
BCS理論は不完全、Andersonの t-Jモデルは眉唾だということになるが、これはまだ私だけの主張である。おまけもある。
Londonは超伝導を一筆書きでやってしまった。電流の式は
j = {p−(e/c)A}|φ(x)|2
彼はいう。超伝導状態の波動関数は rigidである、そこで第一項は消え、電流はvector potentialの項だけで決まり、超電流は反磁性である。見事である、でもちょっと待ってくれ、vector potentialは何処から来るのか。
超伝導状態は intrinsicに電子状態の一つの相である。外場などはいらない。すると Aは多電計の内部にあるに違いない。その通りだと思う。
3.現在
私は学生のとき、ステキな友達がいた。ダンスの相手をしてくたり、時には涙を流しながら玉ねぎの皮をむいてくれた。現在、私の PCの一つの directoryは彼女の名で始まる、
reikosan/londonといった具合に。
私は相対論が好きである。一般相対論を人々は重力理論というが、私は少し違った見解を持っている。一般相対論では Newtonの、第一法則と第二法則を分ける必要がない。空間が flatとは何か、平行とは何か、を論じる。空間をへし曲げて銀河の彼方を隣にすることができるかもしれない。これを Hilbert spaceでやったらどうなるか。
Riemann spaceと Hilbert spaceをごっちゃにする、荒唐無稽といわれるかもしれない。こんな無頼は私だけで沢山である。