甲千寿子先生御退職特集


御退職寄稿 甲千寿子

甲千寿子


甲千寿子先生


 私は、学部4年次(昭和41年3月)に東北大学の化学教室反応有機化学講座(北原研究室)に配属されました。ダンディな村田一郎助教授(後に大阪大教授)の有機理論化学の授業にすっかり魅了されて講座を選択しましたが、有機合成の実験がかくも体力と技術を必要とする研究とは想像もしていなかったのです。

 修士課程に進学するにあたり「君は計算機をいじっていた方が良さそうだね」との北原先生のご指示で、「X線結晶構造解析法の習得」を目的に東京工業大学の笹田研究室に内地留学をすることになりました。ここで、かの有名な大橋裕二先生の下でX線構造解析の理論から実際まで、時には人生勉強も含めてご指導を頂きました。

 修士課程修了後、北原研究室の職員(技術職員)に採用されました。先生は、翌年(1970年)に「理学4軸型X線自動回折装置」をいち早く(日本で3番目)導入しました、東北大学の大型計算機センターも同時期(1969年)に設立され、装置のメンテから解析ソフトの移植、そして実際の解析構造をほとんど一人で行いました。それからの5年間で、私は研究生活の頂点まで上りきったような気がします。大黒柱の北原先生と研究室のスタッフが見守ってくれた御陰で、その苦しい時期を乗り切れたような気が致します。

 その後、NIH(米国)での留学を終えて帰国する1ヶ月前に、北原先生の訃報の知らせが入りました。

 大学の研究室は「大黒柱が倒れると・・・」の格言通り、その後は、いわゆる「雇われの身」として色々な研究室の依頼サンプルの構造解析を延々と続けて、停年を迎えてしまいました。その中で「人間味あふれる優秀な学生さん(現在は大学の教授、準教授で活躍)に出会ったこと」と「学部外・大学外での多数の著名な先生と知り合いになれたこと」が唯一の救いだったと思っています。

 退職後は、G-COEの研究支援者として工学研究科・化学バイオ系教室に席をおきました。特に、薬学および工学研究科でのX線結晶構造解析の教育と支援を行っております。

 さらに、今年度は「教育を目的とした結晶学関連ソフトウェアの開発」プロジェクト(リーダー:理学研究科・山下正廣教授)を立ち上げました。半年が過ぎてしまいましたが、ここでも大橋裕二先生からの紹介で、強力な先生(京都大学、根本隆助教)がメンバーに加わり、共同作成者(筑波大学・秋根茂久准教授)のご協力もあり、フリー配布のydkrソフトウェアの更新も漸く軌道に乗りつつあります。学生さんには、自分の化合物を手持ちのパソコンでいつでも「X線構造解析ができる」環境を作りたいと思っています。漸く、念願の教育ができる立場になりました。

 私は、小学校6年から仙台市中心部のマンモス学校に越境入学しました。仙台市上杉山中学時代は "輝かしい功績(優勝カップ11個取得)"を残した陸上部の長距離選手だったのです。高校は"自由奔放"で有名な宮城県第一女子高等学校の卒業生です。ずっと仙台に住み着いているということで、同窓会・同期会にはいつも引っ張り出されています。今年は、中学校の同期会が9月14日に「ホテル白萩」でありました。95人(先生8名)の方々が集まりました。司会役を任され、50年前にタイムスリップしたスライドショーなど取り入れましたので好評だったようです(写真は司会役でのスピーチ)。

 そして、今年の11月2日には「北原研究室同窓会」を泉ヶ岳温泉「やまぼうし」で開催しました。奇しくも先生が亡くなられてから33年目です。4名の職員、35名の卒業生そして北原晴男ご夫妻も出席しました。3日には輪王寺にある北原、吉越両先生そして近くに眠っている同窓生高槻圭吾さん(S41年卒)の墓参りも済ませ、2年毎の再会を約束しました。こちらの会もパンフレット作成、近況報告のスライドショウなどの裏方の役を勤めました。

 最近では、どうも例の犬型の性格が現れているのか、高校の同期会も含めて幹事役に奔走して、人生の余暇を楽しんでいます。

 また、週末には、昨年から我が家に住むことになった愛猫「ちび丸」と一緒にガーデニングに汗を流しております。長年、単結晶を操作してきたせいか、やはり種子から日々生育する草花に魅力を感じています。今年は、オクラの花を観賞する目的で種子から育てましたら100個位の実の収穫がありました。こちらの草花・野菜作りも夢中になりそうです。

 最後に、改装後のきれいな教室と世代交代による若手の教員を迎えての新しい化学教室の益々のご発展をお祈りしてとりとめのない文章でしたが終わりにします。


甲千寿子先生_集合写真


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