安藤重樹(昭和13年卒)
たん一斗糸瓜の水も間にあはず 子規絶筆
今田章三君(昭和13年.野村 博教授.有機化学卒業)は、かねてからの腰痛にさんざん苦しんだあげく、脊椎カリェスの痛みに号泣した子規の生命感「悟りとは如何なる場合にも平気で生きていること」に大げさでなく共感した様子である。それが証拠に、歩行が大変に難しい今田君が本当の源泉を求めて、山深く、交通の便が極めて悪い、新潟具、松の山温泉に、ついの癒しを手探りした。さりげなく、不屈である。だが、天は今田君に与せず肺炎に冒され、県立松代病院と茂子夫人の手厚い看護も及ばず、平成15年5月7日、永眠された。享年91歳、天寿を全うした今田君を茂子夫人のお気持ちに沿い、静かにお見送りしたい。
白藤や揺りとまりなばうすみどり 不器男
今田君、動から静に平然と生きた。
液晶の窓から君が吹きよする風に輝く白藤われは 多田愛弓
今田君、白藤は香り高い花、生きる白信。
今田君の同級生はすべて旧制高校、台北、五高、甲南、成城、山形、新潟、二高卒の妙に大入びた舞いあがりがなく、自由な思索の気風を醸していた。だが文字通り、古典的ながら熟成した有機化学を伝承する野村教授には、流石に、研究肌の今田、芳賀、渡辺(みな故人)だけが有機化学の卒業研究を許可された。
野村教授は、成熟した有機化学のフラソス、オーストリアに留学し、新知識と有機ミクロ分析法を修得して東北帝大理学部に野村教授の有機化学識座を開講した。野村教授は独身、健康な男盛りで、古典的(?)の有機化学の見識と情報を野村教授の脳細胞に精密に記憶、読取り、演算され、有機ミクロ分析により有機生成機構を思索する神様のような存在だった。温厚だが、丸善、静養軒と郵便本局の他は関心のなかった野村教授は、旧帝大の理学部学生は、教授が講義した有機化学を野村教授と同程度に思索し、理解すると善意に受け止めた。従って、試験問題も難問で、精確に解答できない学生は旧帝大理学部の学生にふさわしくないと手厳しい。今田君はどう感じたか、いまは聞く由もないのが心遺りである。
今は、ただご冥福を祈るばかりです。 合掌
玉手英四郎(昭和17年卒)
突然の訃報に接して言葉を失った。同窓生として昭和15年春に集まった18名は、迫ってくる戦争の足音をききながら、卒論の終る18年3月を予定し、又、卒業後の人生はどうなるか、理由もなく運を天にまかせる意味で『一八会』と命名したのだった。然しながら運命はそれより早く、半年のくり上げ卒業となり、最後の夏期休暇も失われて陸海軍に入隊し軍務についたのだ。石塚君は頑健な体質にめぐまれて陸軍に入隊し、恩師の藤瀬先生のお伴をして確か千葉県の部隊におたずねした時は、おもいがけない訪問に非常に感謝された記憶がある。又、埼玉県の私の勤務先に自転車をこいで突然あらわれてびっくりしたこともあった。そして留守宅の方へ再三参上して食糧難の私を助けて頂いた思い出がある。終戦後しばらくわかれてダイセルに入りお互に多忙の生活を送り、あう機会がなかったと思うが、昭和21年をはじめとして毎年同窓会をはじめて、中途をのぞき各地で継続した。石塚君の記録によると次第に足をのばし、各地で30周年記念を仙台市北仙台の堤温泉で一泊した時は夫婦同伴の盛会であった。中でもダイセル荘での一夜は妙高高原の池ノ平で、秋の風光は忘れない印象だった。
しばらく年賀状の交換のみであったが突然の訃報に接し言葉もない次第で、高槻市の自宅や、箱根の別荘にはしばしばお世話になったことも忘れられない思い出である。
彼との交友は長く深くつづいたが、まさか彼が私より先にあの世へ旅立つとは。この上はせめてもの御冥福をいのるものである。
井上 尚人(昭和18年卒)
平成14年9月16日(月)の河北新報につぎの記事が載っていた。「永澤信氏(ながさわ・しん=元修紅短大学長・食品学)14日午後1時35分、肺炎のため仙台市内の病院で死去、80歳。古川市出身 以下略。」
9月18日斎苑において葬儀が行われた。永澤信君は大正11年(1922年)生まれで、昭和13年(1938年)仙台一中から四修で旧制第二高等学校に入学した。昭和16年3月同校を卒業し、4月東北帝国大学理学部化学教室に入学した。入学した年に勃発した太平洋戦争のために半年繰り上げとなり、昭和18年9月同教室を21歳で卒業した。
第二高等学校時代、永澤君は学友会の科学部に入り、そこにおける活躍が指導教官の有井発己雄先生に認められ、後日母校に教官として迎えられる基礎となった。
有井先生は理学部化学教室無機化学講座(石川総雄教授)において7年間助教授として勤務された後、阿刀田校長に懇望されて教授として第二高等学校に赴任された。しかし、有井先生は片平丁の化学教室内に研究室をもち、その後も研究を続けられた。
われわれ2年生は昭和17年10月から各講座に配属されたので、満1年間研究室の雰囲気を味わうことができた。永澤君はもちろん無機化学講座に所属した。
永澤君は立派な体格をもち、極めて活発な人物であったが兵役を免除されて、戦中戦後を通じて石川研において研究を続け、多数の研究報告を出し、昭和22年(1947年)母校の第二高等学校に教官として迎えられた。
昭和24年(1949年)学制改革により、旧制第二高等学校は新制東北大学第一教養部富沢分校という極めて長い名称をもった東北大学内の一下部教育機関となった。また、宮城師範をいわゆる教育教養部として併合したので、東北大学は旧七帝大の中で教員養成部門をもつ唯一の大学となった。
新制東北大学発足の翌年、昭和25年(1950年)4月より理系2年生の学生実験が始まった。旧制高等学校における化学学生実験と新制大学教養部における化学学生実験との違いは、前者で学生が行う実験は無機定性分析だけであったのに対して、後者は無機化学(理論測定実験を含む)と有機化学の実験がそれに加わることであった。
化学学生実験の運用法には2種類ある。学生実験台を分析、無機、有機の3群に分け、それぞれの分野を専門とする助手が化学学生実験の開催されている全期間、毎週かならず学生実験室に出勤する方式(平行方式)と1年を3シーズンに分け、各シーズンごとに分析、無機、有機の実験を全部の実験台を用いて一斉に学生に行わせる方式(シーズン別方式)である。シーズン別方式においては、週あたりの助手の負担はシーズン中極めて大きいが、学生実験に拘束される期間は年間で平行方式の三分の一で済む。教養部に赴任してから研究実験により学位を獲得しなければならない、若くて体力のある助手にとってはシーズン別方式の方が研究遂行上有利である。
校長あるいは主事の相談役として学校全体の運営にすこぶる忙しかった有井先生は、頭の回転がすこぶる速く、抜群の行動力をもつ永澤君に化学科の学生実験の運営を全面的に任せていた。永澤君自分自身は実質上既に学位を取得していた(昭和25年8月理学博士、28歳)にもかかわらず、これから教養部における研究で学位をとらなければならない助手のためを思い、化学学生実験をシーズン別方式で運営することに決断した。それ以来教養部制が廃止されるまで長期にわたり、教養部化学科における研究によって学位を得た多くの後輩に対して、永澤君は水面下において多大の研究上の援助をし続けたのである。
昭和27年8月永澤君は農学部に移った。有井先生はその3年後の昭和31年4月、第一教養部主事を最後に東北大学を退官された。
私と永澤君が同じ職場で働いたのは新制大学発足以来僅か3年間であったが、その3年間は教養部の教育カリキュラムが確立された歴史的に極めて重要な期間であった。永澤君はこの期間、単に上述の化学学生実験運営法の決定のみならず、当時評判になった極めてフレッシュな入学試験問題を作成するなど教養部に多大な貢献をされた後、農学部に移られた。昭和41年3月のある日、私が出勤すると化学科内では永澤君の長男が入試に合格し、理学部化学科に入学したとの話が広まっており、当然私の耳にも入った。私は永澤君の見識と熱意と実行力に心から感服した。
葬儀場の遺族席には、奥様はじめ現在埼玉大学理学部基礎化学科教授の長男明氏他3人のお子様が並んでおられるのが目に入った。私は祭壇の写真とお子様方の姿を目にして、永澤信君は立派な子供をこの世に残して、心置きなく彼岸に旅立たれたことであろうと思った。心よりご冥福をお祈り申し上げる。
(完)
佐川繁弥(昭和18年卒)
平成14年12月、そろそろ年末の気配が濃くなり何となく気忙しくなるころ、松戸在住の土屋氏夫人衛子様から突然の電話あり、去る10日に御主人が逝去された由の御知らせを受けました。近頃は外出もままならぬことがあることを伺ったことを思い出し、家事にかまけて御見舞にも行けず終いになったことを心苦しく思いました。
君とは昭和16年4月、当時片平丁の大学構内では最もモダンな化学教室で初めてお会いし、名簿順が隣り会せであった縁でその後いろいろとつながりが出来ました。当時の印象としては、古都金沢の雰囲気を湛えた貴公子といった所でした。講義が始まるとすぐ無機分析実験が始まり、君の実験を隣から拝見して、実に几帳面な仕事振りに尊敬の念を抱いたものでした。三年の卒業実験は石川教授の下で二人一室で夫々のテーマについて実験を行ったわけですが、一年間の同室生活で君の学究態度には啓発される所大であったなと思っていました。
卒業後昭和20年に金沢大学の前身、金沢工業専門学校に奉職され、32年には活性ベントナイトによる色素の吸着の研究などで学位をとられ、36年に金沢大学教授に任官されました。この間金沢の老舗割烹旅館の令嬢土屋衛子様と御結婚、土屋家に入られました。その頃のことかと思いますが、君が一度来仙され、お土産に九谷の飯茶碗を頂戴したことがありました。それは薄手の白磁に細い呉須の緑が中心から放射状に出ているもので、誠に閑雅で品格と潤いに満ち、君の人格そのものという感じで感激したことを覚えています。
教授任官後昭和59年に停年退官されるまで、主として錯化合物による環境浄化を中心テーマとして研鑽されたと承知しております。なお退官後も金沢女子大学で教鞭をとられ平成2年に同大学を退職されました。そして関東の地に御子様達が居住されていた関係で千葉県松戸市に移られ、趣味として写生画に精進され時には海外の写生旅行を試みられることもありました。そして地元でのグループ展などには進んで参加されていました。
その後平成3年には勲三等旭日中授章に、又翌4年には正四位に夫々叙せられる栄誉に浴せられました。これは君の人徳によるのは勿論ですが、奥様の内助の功も力あったものと推測しております。
又先頃の阪神淡路大震災の折同期生の一人の秋山正君が罹災され、経営していた工場は大損害をうけ、御本人も一時入院される状況になったとき、君が、率先してお見舞に奔走して下さったことは記憶に新しい所です。これ等のことは皆君の誠実で人間味のある人柄による所で、このような君を失ったことは誠に残念でなりません。思い出は尽きませんが御冥福を祈って筆を擱きます。 合掌
米崎 茂 (昭和19年卒)
平成15年8月21日に美恵子夫人からの突然の御電話で、石丸君が風邪から肺炎で亡くなった由を知らされたが、夢ではないかとわが耳を疑った。と言うのも、彼は抗生物質の第一人者と言っていたからである。
又ずいぶん昔の事だが、同級会の席上で、彼は息子さんが医学部を卒業し、「自分はヨーグルトを毎日愛飲しているから、少なくても90歳までは生きる。」と彼独特の自信に充ち満ちた語り口が耳の奥に残っていたからである。
肺炎に効く抗生物質がなかったのかと首をひねった。
昔を思い起こせば、彼は理論化学を卒業して海軍短現へ行き、敗戦後は所謂ポツダム技術中尉となって復員し、郷里の大分県国東半島の実家にいたが、私が当時、日鉄八幡製鉄の技術研究所に居たので彼がわざわざ訪ねてきて就職を依頼されたことがあった。そこで、八方手を尽くしたのだが何しろ当時の八幡製鉄所は生産が殆ど停止状態であり、空襲で街はは全焼していて住む家もなかった。
更に、満州や北朝鮮の清津(拉致された日本人が不審船で連れて行かれた港町)にあった製鉄所からの引き揚げ社員など何万人という帰国者を抱えていて、新規採用などは全く出来ない状況だったので彼の希望に沿えなかったことは残念であった。彼はその後、九大、熊大を経て、阪大産研教授となった。
奥様のお話によれば、昭和36年から4年間、米国の大学で、セフアロス系ペニシリンの研究を、又、帰国後は、発酵法に代わり化学的合成法でペニシリンを安価に合成することに成功した。
井上春成賞、大阪発明大賞、大河内記念技術賞、紫綬褒章を、又平成7年には勲三等旭日綬章を授けられた。
九年前、腹部消化器官の大手術を受け、以後家庭で療養を続けてきたが、近年体内の免疫力の低下が著しく、僅かに冷えた朝の空気に忽ち左肺を冒されてしまった。
12日間の懸命の闘病生活の末、医師団の看護る中で、8月16日に最後の一拍を打って終わった。とのことであった。
ここに謹んで御冥福を祈る次第である。
小川正明( 昭和19年卒)
何時もニコニコしていた頑丈な体格の貴方が、風邪から肺炎を起こして6月4日に急逝された。一九会の幹事を永いこと続けて、私達が君のご苦労に感謝する暇もなく、病院に見舞いに行つても話も出来ず、本当に残念でした。君は、海軍の技術学生として大学を卒業し、中尉に任官後は呉海軍工廠に勤務、終戦後は生産科学研究所、インタ−ナショナルエンジニアリング社、ルシド−ル吉富、フランスSRCと転職し、苦労の連続であつたが、何時もニコニコして、優秀な才能と円満な人格と努力で人生を切り抜けた人である。惜しい仲間を失つた。我々一九会会員25名は、残り14名となつた。君の追悼文集で、石丸君が、卒寿まで頑張ろうという事になり、現在第二報が出来上がる寸前である。君の仏前にも届けるよ。
山本 清史(昭和24年卒)
平成14年11月30日他界された尼子君とは、昭和21年春に入学して以来のお付合いだった。我々の入学当時は終戦の直後であり、空襲で市内の大半が焼失した仙台では下宿を見つけるのが困難であったから、3階の会議室に簡易ベットを並べて生活していた学生が多かった。尼子君は其処にも入りきれなくて、3階の学生実験室の片隅にあるドラフト室に天野恕君と一緒に住んでいたことがある。ドラフト室に近い私の実験台はしばしば彼のキッチンの役をしていたから夕方になると、飯盒をぶらさげて飯炊きに現れる姿をよく目にしたものだった。
理論化学専攻を目指していた彼は化学だけでなく物理学教室に通って量子力学、統計力学、物理数学などの単位をとることに専念していたので化学科の学生としては珍しい存在だった。有機化学を専攻して卒業と同時に会社に入った私は母校とはご無沙汰していたので、理論化学の研究室に残った尼子君とはしばらく会う機会がなかった。ある年日本化学会が早稲田大学で開かれた際にキャンパス内で偶然会うことが出来た。私の家は早稲田に近かったので誘ったところ快く訪れてくれた。その時驚いたことに彼は仙台から愛車のトヨタパプリカ(800cc)を駆って来ていたのだった。あの車で舗装が完全ではなかった長い道のりを、若かったとはいえさぞ疲れたことと思う。温厚で何かと控えめに見えた彼が案外マイカー族の先駆者だったと認識させられた次第。
卒業して10年あまりたってからは大学を訪れる機会が多くなったので、安積 宏教授のもとで助教授として量子化学を研究していた彼の家に招かれて泊めて貰ったことがある。その時に乗せられた彼の車は最新式のロータリーエンジン搭載のスポーツカーであったのには又驚いた。彼は後に教養学部の教授となり年齢とともに車も何回か換えたが常にロータリーエンジンを愛して全国の友の会で最年長者だったということである。
卒業50周年の秋、裏磐梯の立派なホテルでクラス会が開かれた。24名の卒業者のうち参加者は半数以下であったが、尼子君も元気に参加していた。但しこのときは流石の彼も新幹線利用だった。
幹事から同伴でということなので私は家内を同伴して出席し、ついでに仙台から陸中海岸までゆく予定だったので仙台まで彼と一緒だった。仙台では旨い昼飯をご馳走になり、それから彼の案内でタクシーを利用して片平町から青葉山キャンパスを新旧の母校を訪ね、さらに変貌した市内の要所を見せて貰った。
このとき色々と話し合ったが彼の話の中で感銘を受けたのは、この頃は漸く閑が出来たから自分でライフワークと思っている量子化学の本を書き始めたということだった。大学で行っていた講義をベースとし、最新の文献まで網羅してまとめているとのこと。出版社からの要求で始めたのではないが、まあ自分史の一つと思って書いているのだといっていた。例の穏やかな口ぶりではあったが私には明るく力強いものに感じられた。あらためて心から御冥福をお祈りしたい。
石 源三 (昭和24年卒)
半世紀以上も、クラス会の世話役をしてくれた津田幹事から、「松尾が6月に亡くなったらしい」との連絡を受けて、何とも言えぬ気分になった。終戦直後に化学教室に入り、卒論を同じ石川先生の研究室で行った4人の仲間は次第に減って、遂に私一人になってしまった。早速連絡を取り、奥様から御事情を伺い、お便りも頂戴した。ここに哀悼の意を表したい。
卒論については、お互い別の実験室で各々のテーマで行ったので、よくはわからなかった。
戦後の荒廃の中で、君のさっぱりとして明るい性格は誰からも好感をもたれていたように思う。何時だったか、一度招かれて君の宿に行き、久しぶりに、のんびりさせてもらった事がある。今でこそ珍しくもないが、あの頃に羽毛布団使っていたのには驚いた。
卒業後のクラス会では、残念乍ら会う機会がほとんどなかったのだが、永かった工場生活の後に私が東京勤務となり二年程たった頃に、丸の内で久しぶりの再会を楽しんだことが懐かしく思い出される。そのときの君は、秋田大学教授として、多忙を極めて居た時期だったのだろう。昔と少しも変わらぬ元気溌剌、加えてまた一段とスマートになっていて、話は尽きなかった。
その後も役目柄、また上京することもあるであろうと期待していたのだが、これが最後の歓談となってしまった。
君は、昭和21年4月に、理学部化学教室に入学して、石川総雄教授門下として卒業研究を行い、昭和24年3月に卒業したのだった。その後、選鉱精錬研究所や大学で研鑽を積み、昭和40年2月秋田大学助教授として奉職した。昭和42年12月教授に昇進し、同校での通算27年の勤務の後、平成4年3月に退官したのだった。
君のことだ退官後も、相談されれば喜んで後進たちに適切な助言を与えていたことであろう。ずっと健康だった体調もその頃から、心筋梗塞を患うようになり、その後糖尿病その他の併発もあって、平成15年6月21日に逝去された。
御冥福を心よりお祈りする。
伊東 椒(昭和25年卒)
2003年3月9日、地球の反対側にすんでいる私の許へ、同期生の高須到君から同じ有機化学講座(野副研)出身の村瀬正夫君の訃報が届いた。風邪をこじらせて肺炎になり、3月6日に亡くなった由である。遠く離れて彼の面影を思い出すと、何故か最初と最後の印象が強烈に思い出される。
同期生25名の中に二高出身者、つまり仙台市民としての先輩は8名居たが、彼の人なつこい態度は私達新参一年生には大変親切に見え、あちこちに連れて行ってもらった。広瀬川を遡行したこともある。
一年生の冬、何人かの級友と峨々温泉にスキーに行った。東京生まれの私はホンの初心者で、青根から峨々までいくのも骨だったが、翌日少し手前の斜面で滑っている内に片方のスキーを流してしまった。道を飛び越して濁川への崖の途中にひっかかっていたスキーを、樺太育ちの彼は壺足でヒョイヒョイ飛び降りて拾ってきてくれた。ほかに誰が一緒だったか覚えていないが、どうやって帰ろうかと困っていた私には、雪にすっかり馴染んでいるような彼の姿に、後光が差していたように見えた。
卒業と同時に明治製菓の製薬部門に就職した彼は、会社が岩手県に工場を建設する時点から北上に居を構え、工場を立派に作り上げた。一度、研究室を訪ねてくれた。工場建設の様子を独特の口調で語る彼の話を大変な仕事だなと思った。
折々に通信はあったものの、同期会には殆ど欠席していた彼が久しぶりに姿を見せたのは1998年の松島での会合であった。英国風の格子柄の帽子を阿弥陀にかぶり、若い頃の独特の雰囲気そのままに色々の趣味を披露したが、とくにナキハクチョウの日本初飛来や、飛来がきわめて少ないアメリカコハクチョウの挙動を報告するなど、北上市における各種の白鳥の渡りの観察や餌付けに積極的に取り組んでおり、これらの鳥たちの姿を楽しそうに話していた彼を見て、北上でずっと幸福だったんだなと思った。そのおり、毎年渡来するアメリカコハクチョウ「クロチャン」一家の10年間の観察記録を美江夫人と共著でまとめた「黒い嘴峰の仲間たち」という本を頂戴した。大した労作だと思った。同時に彼が日本白鳥の会の理事をしている事を知った。
いつも飄々として、親しげでありながら他人から一歩間をおいていたような捕らえどころのなかった彼がまた帰ってきたことを皆喜んでいたのだが、それが最後になってしまった。
遠くにて考えると取り留めのない事が次々に浮かんで、彼独特の雰囲気を身近に感ずる。遙かに御冥福を祈る。
(2003/7/24 カルガリーにて)
原 雄次郎(昭和28年卒)
去る5/22、兵庫県有馬温泉のクラス会の折、五井君の訃報が知らされると皆から驚きと共に彼を悼む声が挙がった。それほど彼はわれわれクラス全員にとっては東北大学開闢以来のユニークな存在であり、その死が惜しまれた。
戦後間もないS22/4月、五井君も僕も共に学習院の旧姓高等科理科一年に入学した。クラスは翌年になると、モロに学制改革の煽りをうけ、新制に転向するか背水の陣を敷いて旧制に残るかの進路選択を迫られることになる。二人は共に後者の道を選び旧制大学の受験に備えたが、いざ受験となると自信を喪失、都落ちするかと東北大学の理学部化学教室を受験することになった。そしてS25/4月、幸い仲良く学習院高等科から東北大に合格した。
さて都落ちした仙台は戦後の焼け野原から5年が経過したというものの、縦横にだだっ広い道路予定線のような舗装のない道に雑然とバラックの建物が建ち並んでいて雨でも降ろうものなら泥んこまみれになり、これはえらい所に都落ちしてきたと内心悔やんだものだ。それでも二人は早々と適当な下宿先を見つけて住めば都と東北弁にも慣れ、食糧難のお江戸では食べられない納豆、さんま、銀シャリとありがたい味覚に満足していた。ところで五井君は歯科医の息子で結構羽振りがよい上にもともと年端もなく老成していてひよっこ同然の僕とは一線を画した「おっちゃん大学生」だ。大学の講義やユーブングなどは適当にして先輩で面倒見の良い某大銀行支店長K氏に気に入られ、日暮れともなると夕飯付きマージャンのお相手に多忙の日課であった。だからある時、西沢吉彦君(故人・住友化学)が比喩して「学習院といえども公達ばかりかと思っていたら上は皇太子から下は五井君までと幅がひろいもんだなー」とは誠に的を射たことばである。
ところで五井君の在学中、忘れられないエピソードは「キマルパシャ事件」である。これは茶目っ気の五井君がある時、クラスの力丸光雄君(岩手医大)の風貌が日本人離れしていることに目をつけ、下宿の娘さんを担いでやろうと企み、彼を「インドの貴族でキマルパシャという留学生」に仕立てて娘さんに紹介し縁を取り持つという悪巧みの計画を実行した。この出会いの場には藤瀬教授夫人も同席するという念の入れようでキマルパシャこと力丸君が流暢な英語で終始演技した甲斐あって娘さんはころっとだまされ、最後まで偽インド人留学生を見抜けず結果は大成功であった。しかし、これには一枚上の力丸君にさしもの五井君も慌てるという落ちが付く。力丸君は翌日、五井君に「大変なことになった。河北新報の記者が嗅ぎつけてきて君にインタビューしたいと言っている。」という嘘の話を伝えると彼は真っ青になってどうしようとガラにもなく慌てたそうだ。
五井君の大学生活には実験に熱心であったとか成績優秀だったとかいうまじめな話はどこからも出てこない。それでも卒業論文の指導を頂いた藤瀬新一郎先生の覚えは「おもしろい変わったやつ」という印象でそれなりに悪くなかったと思う。大学卒業と共に東海パルプに入社、静岡県島田市の同社工場に生涯勤務した。僕はS50年代、静岡に勤務していた頃、彼が工場の機械に挟まれて骨盤の複雑骨折という大怪我をしたと伝え聞いて、お見舞いに行かねばと思っていたが果たせなかった。その後、彼は奇跡的に元の身体に快復、職場に復帰した。親分肌の彼故、現場技術者として工場の部下に大いに慕われていたことと思う。訃報を聞いて奥様にお悔やみを申し上げると20年ほど前に脳梗塞を病み、不自由な体で余生を送り眠るが如く静かな最後(4/03)であった由、卒業以来、再会を果たせずに親友を亡くしざんかいに耐えない。いまごろあの世で「北朝鮮の金正日の料理人」ではないが「Hara Peco(どういう訳か彼は僕のことをそう呼ぶ)余計なことをしゃべるな」とヤキモキしているかもしれないが君と僕は旧制高校・大学6年間の盟友だ許せ五井君、安らかに成仏してくれ。
昭和29年卒 高村 喜代子
平成14年11月29日、級友高橋正弘さんのご逝去を大槻勇さんからの電話で知らされたとき、自分の耳を疑った。実はそのひと月ほど前のこと、昭和29年卒化学科同級生一同がおたがいの古希を記念して仙台に集まった。高橋さんもそれに参加のため静岡から来られたのに、まさかひと月後に訃報に接することになろうとは誰が想像していただろうか。聞くところによれば、すでにご自身のご病気がかなり進行していることを承知の上で参加された由であった。そのことを誰にも語らず、一晩泊まりの翌朝早くに仙台を発たれ、二日目の化学教室見学コースには参加されなかった。ひそかに級友に別れを告げに来られたのかと彼の心中を察するとき、胸のふさがる思いがする。
思い出は50年前に遡る。我々の学生生活は三神峯の旧第一教養部で、春爛漫の桜花のもと杯を交わすことで始まった。理学部化学科に進学してからは片平丁キャンパスの旧化学教室に移り、3年生の一ケ年を「ユーブング」のために2階と3階の学生実験室で過ごした後、共に無機化学教室に卒論生として配属になり、最終学年を送った。この間、彼は独特の声でいつも元気いっぱい活動し、クラスの人気者であった。よく食べ、よく飲むことから、いつしか皆から「ボンベ」の愛称で呼ばれるようになった。教室コンパの折など、クラス紹介役にはいつも彼が指名された。というのは、ユーモアたっぷりの表現に加えて、話の盛り上がりと共に独特の声は次第にトーンが高まり、聴衆の爆笑と大拍手を誘うのが常であったからである。その上なかなかのスポーツマンで、高校以来サッカーに親しまれたそうで、すらりとした長身の好青年であった。
大学院修士課程を修了後、日本軽金属株式会社に就職されてからは、ずっと静岡県に住まわれるようになった。隔年に催される同級会にはいつも変わらぬ元気なお姿を見せておられ、愛娘のご成長振りを目を細めて語られていた。そして、我々のクラスのおじいちゃん第一号となって話題を呼んだ。
平成6年の同級会は彼が幹事となって静岡で催され、登呂遺跡、三保の松原、日本平などを案内していただいた。その折に伺ったところによると、休日にはよく奥様と近郊を散策され、自然の山野に咲く花を好まれる奥様のために、花の写真を撮るのをご趣味とされているとのこと。「だって、カアチャンは大事だもの」と言われたのが、いまだに耳に残っている。こんなお幸せがもっともっと長く続けばよかったのに、早々に旅立たれたのが残念でならない。
高橋正弘さん、どうぞ天国でも美しい花の写真をたくさんお撮り下さい。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
高橋 正明 (昭和30年卒)
宗像孝君は昭和30年化学科卒業生の同期で、私は卒業後すぐに呉羽化学に就職したが、彼は引き続き修士課程を修了し、2年後の昭和57年に私と同じ呉羽化学に入社してきた。 学生の時から宗像君とは親しくさせて頂いたが、その後も同じ会社の同僚として長い間公私ともにお世話になった。 昨年4月同級生や会社同僚の誰にも知らせずに彼はひっそりとなくなり、あとで知らせを聞いたのはお葬式のあとで、本当に残念だった。 心からお悔やみ申し上げると共に、同級生を代表して宗像君の思い出をつづることで同君への追悼の言葉としたい。
宗像君は世話好きで、誰からも好かれる人柄だった。趣味も広く、スポーツはテニスをやっていたが特に造詣が深かったのはジャズだった。当時アメリカで流行していたモダンジャズが彼の最も得意とする分野で、呉羽化学入社当時独身寮で一緒の部屋だったこともあり、私が全く知らないジャズのレコードを聞きながら、彼の解説に聞き入った。学生当時私は、やはり同級生の丸山雅雄君や野副重男君の影響でクラシック音楽が好きだったが、毎晩宗像君の解説と共にジャズを聞いている中にジャズの持つ何ともいえない魅力に引きつけられ、その後はすっかりジャズにはまってしまった。宗像君が当時最も好きで、何度もかけてくれたのはDave Brubeck Quartetで、特に“Impression of USA”というレコードだった。クラシックと違い、ジャズはStandard Numberという曲はあっても、演奏者やその時々で全く違ったものになるということ、曲の中でも順番にその場の雰囲気で即興演奏することなど、ジャズの持ついろいろな魅力を教えてくれたことが本当に懐かしく思い出される。後にふたりとも順番にアメリカに留学したが、私がLos Angelesで本物のDave Brubeckの演奏を聞いた時の感激はいまだに忘れられない。宗像君はPerdue Universityに留学したが、恐らくChicagoあたりで本場のModern Jazzを聞いてさぞかし堪能していただろうと思う。
もうひとつの忘れられない思い出は化学科の卒業旅行だ。当時卒業前に会社見学を兼ねて卒業旅行をするのが慣習だったが、そのあと宗像君と我々数人で大阪―四国―広島―松江―直江津―長野―上野―仙台と約一週間の旅をした。当時は回遊券などというしゃれたものはなく、一枚の小さな切符で、その裏に経由する駅がびっしり書かれていて、検札にくる車掌さんがびっくりしていたのを思い出す。その頃はまだ学生で旅行する人は少なかったこともあり、どこの旅館でも親切にしてくれた。中でも松江の旅館は湖を眺めるすてきな部屋で、その旅館の息子さんが東京の大学にいっているとかで、値段のわりにはすごいご馳走だったのを覚えている。長野では丸山君の家に大勢で泊めていただき、バスで戸隠の蕎麦を食べに行った。丸山君の母上はピアニストで、その時ショパン(たしか木枯らしのエチュードだったと思う)を弾いてくださった。
思い出は尽きないが、宗像君は本当に誰からも愛される、気持ちのいい人柄だった。亡くなる少し前、丸山君の帰国を歓迎するということで、宗像君が幹事で、同級生数人と新橋で会食したが、その時はまだ元気で、彼得意の饒舌を振るっていた。本当に彼を失ったのは我々同級生にとって何よりも寂しくてしかたがない。心からご冥福をお祈りする次第です。
鈴木 孝(昭和31年卒)
平成14年12月10日鈴鴨剛男さん(昭和37年卒)から電話があり、君が11月25日永眠されたことを知りました。ある程度の憂いを感じていたものの、一瞬樗然とした。早速2日後お宅を伺った。本年7月14日化学教室の同期会が東京であり小生は始めて出席したが、そのとき伊藤幹事から君からの音信不通を知り、また帰阪後も連絡がとれず、若干の不安を感じていた矢先であった。
思い起こせば、昭和29年の春教養部からともに化学教室に進んだ。分析化学における二人一組のユーブングで君とペアになったが、それが君との始めての出会いであった。そのとき君が実に巧みな技をみせるのに驚いた記憶が、今でも鮮明に残っている。また、当時化学教室では野球が盛んであり、青葉山の八木山球場で行うときなどには君が同期の工一スとして登板し奮闘していた。いづれにしても君は、その当時から勉学にまた運動に我々を牽引する優秀で、多才な能力を遺憾なく発揮していた。
その後君は修士課程に進学修了し、そして住友化学に就職し来阪された。ここで再び君との交友が始まった。小生の武田薬品夙川寮にお出で戴いたし、ま。た同期生の来阪時には君から呼んでもらって交友を温めたりし、交際は続いた。その後はお互いに仕事に、家庭に忙しく一なり、年賀のやり取りぐらいで過ごしてきた。仕事では、君は当時石油化学で脚光を浴びていた合成樹脂の分野で大いに活躍し、立派な功績を残した、と聞いている。
また、君は我々の学年幹事を引き受け我々の世話にも努力された。数年前、船生緑君の訃報を頂戴したが、それが君から頂いた最後の連絡であった。一奥様のお話によると、野球は60歳近くまで行い、ゴルフでは会杜後輩の指導にあたっていたとのことである。最近は、絵画にも興味をもち、その最初の作品が入賞したそうである。仏間にはこれらの作品が飾られてあった。全く最後まで文武両道に秀でた君であった。小生は本年3月まで勤務し、退職後はゆっくりと交際をお願いしたいと思っていたところである。生老病死は人の世のならい、一度無常の風が吹けばそれに逆らうことはできないが、何故その風が強健な君に吹いたのか、後10年の寿命が君に残っておればと思い、天を憾むのみである。今となってはそれも詮無いことであり、ただただ心から冥福を祈るのみである。
合掌。(平成14年12月18日)