追悼 吉原賢二先生
吉原賢二先生のご逝去を悼んで
吉原賢二 東北大学名誉教授(1993年(平成5年)3月31日定年退官)は、2022年(令和4年)11月27日に永眠されました。ここに先生を偲んで拙文を記したいと思います。
最初にご略歴についてまとめておきます。先生(1929年(昭和4年)9月16日、新潟市出身)は、1953年9月(昭和28年)に東北大学理学部化学教室を卒業後、通商産業省工業技術院電気試験所、日本原子力研究所を経て、1968年(昭和43年)10月に東北大学理学部助教授に任ぜられました。1982年(昭和57年)2月には教授となり、定年まで理学部化学科放射化学講座を担当されました。1961年(昭和36年)2月より1年間にわたって米国ブルックヘブン国立研究所に原子力留学生として研讃を積まれたほか、1973年(昭和48年)9月~10月には西ドイツ・カールスルーエ原子核研究センター、同年11月~12月にはフランス・ストラスブルグ原子核研究センター、1984年(昭和59年)9月〜10月にはハンガリー同位体研究所に滞在されるなど、在外研究に従事してこられました。もちろん数々の国内・国際会議を中心的にお世話されただけでなく、多数の著名な学術誌の編集等にも携わってこられました。
先生は種々のカテゴリーを持つ「放射化学」分野に関わられてきましたが、中でも「ホットアトム化学」と呼ばれる研究に重心を置かれていました。これは、原子核反応や核壊変を起こした直後の原子自身が関与する化学反応に着目したもので、周囲に存在する同元素の原子とは異なる特異的な化学挙動を示すという不思議な現象です。物理的な核現象に伴って高エネルギー状態の原子(ホットアトム)が現れる様子をシンボル化し、このような研究分野をホットアトム化学と呼んだわけです。通常の化学反応のエネルギーをはるかに上回る運動エネルギーや励起エネルギーをもたらしたり、高い荷電状態が瞬間的に生じることなどがその特異的な反応の主原因となるのですが、特殊な成因を持つ同位体の化学を意識しなければならないことがその特徴です。特異的な化学挙動にワクワク感をもち、通常の化学研究からはみ出した新分野の開拓意欲に、先生の反骨精神を垣間見るように思います。
先生は数々の業績をあげられ国際的な地位を確立されていましたが、その中で特筆すべき成果を一つだけあげるとするならば、それはγ線による原子核励起反応を利用した「出現エネルギー」の実証と言ってもよいでしょう。これは、固体中の原子がどのくらいのエネルギーを持てば化合物中の結合位置から外れて格子間原子として見いだされるか(出現するか)を実験的に求めたものです。原子核反応によって与えられる運動エネルギー(反跳エネルギー)変化に着目し、115In(γ,γ’)115mIn という核励起反応を利用したことが大変ユニークでした。これにより数十 eV 領域における反跳エネルギーを制御し、生成した放射性核種 115mIn が元の化合物として残っているか否かを化学的に調べた結果として出現エネルギーを観測したというわけです。もちろん突発的にこのアイデアを思いついたのではありません。先生は、これよりもかなり前から(γ,γ’)反応という特徴的な核励起反応に興味を持ち、種々の元素の同位体に対してその起こりやすさを地道に研究されていました。そして、米国留学でホットアトム化学の第一線の研究者と関わることによって培われた知識・経験が加わり、このアイデアが醸成されたと推測されます。
東北大学を退官されてからの先生のご活躍はまた一段と目を見張るものがありました。それは、多くの人たちの知るところとなったニッポニウムに関しての調査研究です。20世紀初めに、小川正孝(後の東北帝国大学第4代総長)はトリアナイトという鉱物の化学分析により新元素(原子番号43)を発見したと報告しました。一時は周期表のテクネチウムの位置に Np (ニッポニウム)として記載されるまでに至りました。その後、このニッポニウム発見の報告は否定されてしまったのですが、吉原先生はこれに疑問を持ち、詳細な調査研究を行いました。その結果、小川が見いだした元素は、当時はまだ発見されていなかったレニウム(原子番号75)であったという結論に達したのです。
さて、この調査のきっかけの一つとなったのは、先生の発案で開催された「テクネチウムの挙動と利用に関する国際シンポジウム1) 」(仙台、1993年(平成5年)3月)であったと思います。その名称のとおり、テクネチウムを冠した会議ですから思い入れもひとしおであったことは間違いありません。また、先生の著書の中に興味深いことが記されていました。それは、小川家と関係を持つ方の知り合いが以前にあり、まだ仙台に来る前にその方から「ニッポニウムの話を切り出されておおいに驚いた」という記述です。先生自身も思い浮かべてはいなかった因縁を感じたとのことでした。
ニッポニウムに関する調査は極めて詳細にかつ発展的に行われており、微に入り細に入りとはこういうことを言うのであろうと感心させられます。文献調査とその精読はもとより、小川正孝のご遺族・ご親戚、あるいはゆかりの研究者との接触を重ねて情報を得たほか、さらにはご遺族から提供された遺品(X線写真乾板、実験器具や試薬類など)の解析・分析に至るなど、精力的に行われました。それが小川正孝自身を越えてご子息や周囲の研究者等にも対象が広まり、みるみるうちに進展していった様子には本当に驚かされました。それにつれて先生が書かれた邦文・英文報告や著書はどんどん増えていき、国内だけでなく世界的にも注目を集めることになったわけです。やはり新元素の発見というテーマは国際的にも重大なトピックスですから注目度も高く、誤報としての批判の記録が歴史上に残された小川の名誉回復のためという幟が吉原先生の心の中に翻めいていたのであろうと思います。
さて、これらの調査活動は名実ともに世の中に知れ渡ってその評価が高まり、化学史学会学術賞(2008年(平成20年))を受賞するに至りました。ただし、先生は止まるということを知らず、日本エッセイストクラブの会員としても数々の著書を執筆されました。先生の著書では、科学的史実だけではなく、人物を取り巻く地域や出自・生活環境、社会背景など、周囲の諸事情をもとに本人の思いに触れる文章が数多く見られ、読み物としてその流れが理解できるように工夫されています。また、「化学者たちのセレンディピティ」、「科学に見せられた日本人」のように、ニッポニウムに関連した調査を基点にして他の著名な自然科学者たちに思いをはせ、その内容を発展させました。さらにはそのようなジャンルを超え、「卑弥呼から神武へ」、「夏戸城のロマン 現代へのメッセージ」のように歴史的な題材に踏み込んだものなどなど、多彩な文才を発揮されました。ご逝去3ヶ月前の9月1日に発行された「日本の歴史と個人の歴史」に添えて、「九十代の年寄りでも、まだまだ自分のやりたいことを形にできることを、若い孫世代の人たちにも知ってもらいたかった」とうかがいました。いやいやこれに止まらず、まだまだ先の執筆計画を練られていたことを確信しています。
最後に、先生が社会と非常に強い関わりを持った重要な出来事について簡潔に触れたいと思います。先生のご次男が予防接種の直後にワクチン禍に見舞われ、体の自由が奪われてしまったことです。その後、同様な境遇を持つ方々とともに国に対して集団訴訟を起こし、長く辛抱強い20年ほどの時を経て勝訴したのです。「国家賠償法訴訟に勝つまでの20年の道のりを支えたのは君(ご次男)の笑顔だった」と先生の著書にあり、あらためて言葉を失いました。また「この訴訟勝利までの道のりを人々の心に刻み、未来の子供たちの命を守りたいという願い」のもとに、1997年(平成9年)には仙台市向山に”いのち像”2)というあどけない子供の像の設置に至っています。詳細は「私憤から公憤へ」、「夕映えの杜に」など多数の著書に記されていますが、先生の強い想いに基づく社会活動の一端を知ることができます。
さて、何人(なんびと)もまねすることはできない吉原先生の生涯を想いながら、そろそろ筆を置きたいと思います。いつも挑戦する姿勢を貫き、物事に対するその姿は倒れそうなぐらい前かがみであるのですが、それと同時に人への温かな想いを社会に示され続けたことが深く胸に刻まれました。どうぞここで一時でも休憩をとりながら、のちの世をあたたかく見守っていただければと願うばかりです。
脚注
1) 人工元素テクネチウムに関わる種々の分野の第一線の研究者による国際シンポジウム。無機、錯体、分析化学などの基礎化学や、薬学、核医学といった医療に関わる分野、核廃棄物に関連した原子力分野、同位体化学、原子核反応、環境化学や宇宙地球化学など、テクネチウムが関わる幅広い分野のトピックスに触れ、その認識の幅を広めようとするユニークなものです。研究者は、細分化された専門学会活動に溺れがちになり、周りが見渡せなくなってしまうことがありますが、その逆の発想を実体化した会議と言うことができ、先生の柔軟な学問の捉え方を表しています。
2) 先生の旧知のドイツの放射化学研究者フランツ・バウムゲルトナー博士のご息女のイングリッド・バウムゲルトナー氏(彫刻家)が製作したものです。