追悼



山内清語教授 追悼 出口喜三郎

老田貞夫さん 追悼 白幡公勝

盛田正治さん 追悼 島内浩喬


山内君を偲んで


出口 喜三郎


 正直この一文を書くことはとても辛いことです。余りにも突然の逝去だったので。大学院時代を同じ研究室で過ごし、その後も折に触れお付き合い頂いた一人として、思い出やエピソードの一端を綴り、山内君を偲びたいと思います。

 1971年4月、中島研で最初に出会った時、独特の(会津?)訛りのある語り口調で気さくに話しかけてくれたのを今も憶えています。お陰で自分の話し言葉(能登訛り)にコンプレックスを持っていたのを払しょくできました。即ち、「みんな訛まっている」と。研究室は理論の中島先生と実験の安積さん(当時は、先生とは呼ばず“さん”付けでした)の2グループで構成されていましたが、勉強会は誰でも自由に参加できて、とても活発に議論をする研究室でした。しかし、午後3時過の“野球タイム”になると、勉強、研究、実験も手に付かずグランドに向かう日々でした。率先してグランド(片平、青葉山、時には農学部)の確保、練習後の反省会(飲み会)をマネージするのが山内君であり、彼の面倒見のよさは生涯変わらなかったと思います。野添杯での連勝のみならず、ボート、青葉山一周リレーなど、スポーツと名の付くものには何にでも参加し、それなりの成績を残す不思議な研究室でした。研究も遊びも一生懸命の時代だったと懐かしんでいます。また、今では信じ難いことですが、大学院生18名中12人が既婚者であり、折に触れて家族ぐるみでの付き合いでした。

 修士論文をJACSに発表していた山内君は、博士課程修了後、学術振興会奨励研究員として研究室に残り、私は南カリフォルニア大学へポストドクとして旅立ちました。しかし、翌年6月には、ピッツバーグ大学のポストドクとして赴任する山内一家とロスアンジェルスで再会しました。少し落ち着いたその秋に、「モントリオールまで一緒にドライブ旅行をしよう」との誘いを受けて、リトル東京で買ったマグロを土産にピッツバーグへ飛び立ちました。この旅行で忘れえない2つのエピソードがあります。私達が話しに夢中になっていたら、まだ一人歩きしていなかった私達の長男が2歳年上の山内君の長男の後を追いかけていたのです。本当に嬉しい驚きでした。カリフォルニアとは趣が異なる石造りのアパートで2泊して、最初の目的地バッファローに向けて出発しました。車中、家内がパスポートを持ってくるのを忘れたことに気付き、大慌てになってしまいました。結局、私達一家は、バッファローで3日間、USAサイドからのみナイアガラを“堪能”して、シカゴ経由でロスに戻る派目になりました。「いつかリベンジを」と思っていたけれど、もう叶うことはありません。

 USAでのポストドク後、山内君は京大廣田研で助手となり、東北大岩泉研の助教授を経て、東北大教授となりました。正に研究一筋の人生を順調に歩んできたと言えましょう。一方、帰国後の私は、学術振興会奨励研究員として1年間研究を続けたものの、その後、分析機器メーカーに移って製品開発に従事してきました。この間、仙台に出張する度に研究室を訪問したり、一緒に食事をしたり、昔と変わらぬ付き合いをさせていただきました。2003年、北大から依頼された装置を設計したことが縁で研究生活に戻った時、とても喜んでくれて札幌で飲み明かしたことも忘れられない思い出です。

 一昨年の大震災後、互いの無事を確認し、仙台で食事をしながら夫婦4人で時間の経つのも忘れて話をしたのが、お会いする最後になろうとは! 昨年6月、震災復興支援プロジェクトで来仙した折、「明日は卒業生の結婚式で東京だけど、7月の松島での国際学会が終わった頃にまた会おう」と携帯で話したのが最後の会話になってしまうとは! 国際ESR/EPR学会の実行委員長としてのご苦労は大変だったろうと思います。後に、「松島の国際学会疲れが残っている様子だった」と人伝てに聞きました。きっと脳動脈瘤の自覚症状もあっただろうに、無理を押して研究に殉じたのかと思うと、すこし複雑な気持ちです。今は唯、「ゆっくりお休み下さい」と申し上げてご冥福をお祈りするしかありません。また、NHK大河ドラマ“八重の桜”を観ながら、生涯会津訛りだった山内君を偲ぶ一年にしたいと思います。

ページトップへ




老田君を悼む


白幡 公勝


 老田貞夫君が亡くなったという。

 ご長男から訃報のメールが飛び込んできたのは1月30日の昼過ぎだった。何度読み返しても信じられない。5日前に彼から次の様なメールが来ていた。直前の様子が窺え、皆様への報告にもなるので引用すると、「今日(25日)予定より早く退院しました。22日にカテーテル治療をうけました。4時間あまりかけて詰まった冠動脈に針金を通そうと医者は頑張りましたが、上手くいかなかったようです。血流がないので造影剤をいれても血管がよく映らず、難しそうな施術と覚悟はしていましたが、結果はちょっと残念です。来月下旬に再トライの予定です。ご心配をかけていますが、とりあえずお知らせを。ご自愛下さい。」こういう訳だから、本人は次回の再手術を待ち、その成功を信じていたと思う。私もそう信じていた。

 ペンタトリアコンタという同級会がある。昭和38年に化学教室を卒業した35人同級会の名である。老田君もこの仲間だ(以後ペンタと略す)。ペンタは4年毎に宿泊旅行をしているが、昨年(10月)は白浜温泉になった。翌日熊野古道を散策し、もう1泊して解散したが、あれが老田君と同級生とのお別れ会になってしまった。帰路、大阪までの電車の中で、心臓周りの血管に問題があって、そのうち手術をすると聞いた。然し、話す方にも聞く方にも深刻さは無く、やがてすっかり治って再会できるということに何らの疑問も持たなかった。

 同じく昨年、11月中旬に旧北原研究室の同窓会が松島で開催されたが、老田君はこの会にも出席している。私は家内に事故がって、急遽途中帰宅したために老田君には会わず仕舞いになった。後日、幹事さん(甲さん)が送ってくれた写真集を見ると、彼が同窓会を楽しんでいる様子が写っていた。今、こうして追悼文を書いていると、彼は化学教室の友人知己とはちゃんとお別れの機会を持っていたという気もしてくる。偶然だが不思議なものだ。

 さて、彼の略歴等について知るところを簡潔に記してみたい。老田君は化学科有機第二講座(当時は藤瀬研)を経て、同38年大学院修士課程に進学。進学先は当時非水研にあった北原研究室である。私は学部では放射化学を学んだが、心機一転、有機を目指し、ここで彼と同じ釜の飯を食うことになった。彼は、助手(当時)の吉越さん達のドラブラジエン(ヒバ油の成分)というジテルペンの全合成チームに合流して有機合成研究者としての一歩を踏み出した。2年目の秋だったか、博多での天然物討論会に成果を発表することになった。北原先生達は先に行ってしまわれ、残って実験を続けていた彼が最後のステップの生成物のIRスペクトルが天然物のそれと一致することを確認し、それを抱えて博多にぶっ飛んで行った。当時、未だ世界で何例目かというジテルペンの全合成を先生は胸を張って発表されたと思う。私はNMRの解析をやっていて老田君達の仕事の意義はよく分からなかったが、彼が何か素晴らしいことをやってのけたのだと思ったものだ。今、それが青春の一コマとしてとても懐かしく思い出される。

 当時の北原研では我々が最年少だった。幹部の目が行き届き、とても可愛がられ(つまりシゴカれ)たが雰囲気の良い研究室で、教授室での飲み食いなどでも歓待された。そんな時は手拍子で歌うのだが、老田君の‘こきりこ’は秀逸だった。

 修士課程を修了後、彼は三共株式会社に就職した。会社での様子を、やはり同社に勤務したペンタ会員の渡辺泰一郎君から聞くと、概略以下の通りである。

 鎮痛薬、抗がん剤等の誘導体の合成の後、アニソマイシンの全合成に成功して、1969年に博士号を取得(主査は北原先生)。自社開発のカルバペネム誘導体のカルベニンの独創的な合成法を見出てその製品化に貢献。同期入社6人の中で学位を取得したのも海外留学(1971年から2年間、カナダのNew Brunswick大学のポストドク)したのも老田君が一番早く、その後の研究活動でも出世頭で、同社の有機化学研究所所次長やら活性物質研究所所長を歴任して定年を迎え退職したという。

 故郷の高岡に戻ってからは畑仕事等に精を出し、近くの庄川でアユを掛け、時には能登の方へ出かけて筏に乗ってクロダイを釣ったという便りを寄越したりしていた。だから、そういう趣味の暮らしをしているのかと思っていたが地元では結構な顔役でもあったらしい。葬儀で弔辞を読まれた方が町内会の会長さんで、老田顧問には大変お世話になった旨を語っていらっしゃった。

 人は、老田君は飄々とした人だと評する。私も同感だが面白い男でもあった。話に何かおかしなジョークが混じる。よく聞いていないと気が付かないユーモアもあった。どこか波長の合うところがあって、私はそういう彼の話振りが好きだった。冒頭に紹介したメール中、「医者が頑張りましたが上手くいかなかったようです」という下りも、自分の生命が掛った手術であったのにこの恬淡・飄々とした書きっぷり。彼の個性が表れている。

 最も親しくしていた友人の一人を失った。昭和34年の春以来半世紀を超えての交わりであった。今は唯々、冥福を祈るしかない。

 白幡公勝(昭44、DC終了)

ページトップへ








畏友 盛田正治 君


島内 浩喬(昭和37年卒)


 2012年1月20日は忘れることのできない日となった。早朝、夫人から突然の訃報がもたらされたのだ。その日は盛田君に電話しようと思っていた日であった。手帳の「盛田へTel」というメモは消されることなく残っている。54年前、彼は我々同級生の前に異彩を放って現れた。別れもまた強烈な印象を残して去っていった。

 1958年(昭和33年)4月、三神峯の教養部富沢分校で、糊の利いた真っ白いワイシャツとえんじ色のネクタイに背広姿の彼は、もう何年も浪人したかのような落ち着きを漂わせていた。眉間にしわを寄せ、黒い太い縁の眼鏡にマドロスパイプをくわえた姿は、もういっぱしの大人で、まだ高校生気分の抜けない我々の中で際立っていた。大阪の北野高から現役で入学してきたと聞いて驚いたが、ひとたび口を開けば、苦みばしった顔で大阪人らしい、柔らかい話をするものだから、その絶妙なコントラストで,たちまち人気者になっていったものだ。

 強烈な印象は、化学科に配属された時の歓迎会の席上でも遺憾なく発揮された。自己紹介のときに彼は『私は議論(ぎろん)化学discussion chemistryをやりに来ました』と堂々と言い放って、一瞬どうなることかと、一座がしんとなる中、学科主任の安積 宏先生の拍手喝采を博したのだ。こんなことはおそらく化学科の歴史で空前絶後のことではないか。

 講座配属のとき、いかにも彼らしいが、心憎くも韻を踏んで、光化学の小泉正夫先生の理論(りろん)化学講座を選んだ。その理由は、当時はまだ敗戦後の食糧難が記憶に新しいときで、彼は光合成の仕組みを解明して二酸化炭素と水からデンプンをじゃんじゃん造って世界の食糧問題を解決するのだという、壮大なビジョンを持っていたからだ。このテーマは地球温暖化の問題とも重なり、現在でも益々重要さが増している。彼の先見性にいまさらながら驚くばかりだ。彼は法螺話だと煙に巻いたが、一方で大阪人らしいふざけたことも大好きであった。片平丁の北門の近くの名刺屋に「○○大学教授 洞野(ほらの)富久男(ふくお)」という名刺を造らせに行った時に同道したが、名刺屋の主人のまじめくさった丁寧な応対ぶりに、小生は吹き出しそうになるのを抑えるのに苦労したことを思い出す。この戯名は彼が最初「洞尾(ほらを)富久造(ふくぞう)」としようかどうかと悩んだ末に決めたと聞いた。

 また、彼のさりげない心遣いに関するエピソードにもふれなければならない。彼はある友人が結婚に失敗したとき、一言も言わずにその友人を大阪の有名なストリップ劇場の、しかも特等席へ連れて行ってやったということを聞いたときに、これこそ彼の面目躍如と感じたものだ。そしてその友人のために二度も結婚披露宴の司会をやってやったということだ。彼の温かい人柄をよく示す話ではないか。ともすれば秀才にありがちな冷たいところは微塵もなかった。

 彼とは大学院時代に米ヶ袋の同じ下宿で2年間一緒に過ごしたが、随分もてたはずなのに、浮いた話は一切聞いたことがない。彼は晴子(はるこ)夫人を生涯の伴侶とはっきりと心に決めていたようで、当時はやっていた社交ダンスは、どんな無礼講の席でも、どんなにひやかされても絶対にしなかった。他の女性の手を握ることすら自ら禁じるという、並々ならぬ意志の強さと律義さをも兼ね備えていた。盛田君にダンスをさせることができるか、という賭けに勝った者は結局誰もいなかった。このことは彼の夫人への愛情と信頼がいかに深かったということを証明していると思う。

 彼は、「法螺(ほら)を吹くことが大事だ」というのが口癖であった。これは日本人の科学者は仮説検証型が多くて、仮説提出型が少ないことを言いたかったのではないか。『科学者なら大法螺を吹いて仮説のひとつも出してから死ね』と励まされているように自分には感じられる。「フィロソフィー(哲学)」という言葉が好きであったが、彼は科学の本質を理解していた、本物の科学者のひとりであったと、私は信じている。昨年の福島第一原発の事故に関連して、原発の問題の本質は、手っ取り早い方法ではあるが、エネルギーをいったん熱に換えているところにあるのではないか、放射線のエネルギーを太陽電池のように直接電気に換えることはできないであろうかと、量子物理学もよく分かっていた、光化学の専門家である彼と議論がしてみたかった。果たせなかったのは実に残念至極だ。このような未曾有の人災に釣り合うには、誰でも考えつく月並みなアイデアでは到底駄目であろう。このようなときにこそ大法螺が必要であると思うからだ。つまり、盛田君のいう「法螺を吹く」とは固定観念にとらわれず、原理的なところから考え直すという、理学部的思考のことを指しており、至って真面目なものなのだ。その際、議論(ぎろん)することが大切で、法螺から出た真(まこと)ということもある、というのが彼の言いたかった事であると新めて思う。

 昨年の秋に,小生が彼にあることを頼んだのに対し,快く引き受けてくれた。このことから想像するに、最後の瞬間まで死ぬとは思っていなかったであろうと思う。これこそ本当の大往生といえる最期であったと感じる。不謹慎の謗りを甘んじて言うならば、生前に希望していたとおりに、長患いもせずに人生最大の大仕事をやり遂げた盛田正治君をむしろ祝福したいという気持を抑えることができない。

 島内浩喬(昭和37年卒)

トップ ホーム