追悼


 磯部太郎先生のご逝去を悼んで 岩泉 正基

 磯部太郎先生を偲んで 千喜良 誠(昭和41年化学第二学科卒業)

 天野杲先生(昭和24年卒)回想 伊藤 攻(昭和41年卒)

 山口勝三さんを偲んで 浅尾 テル子(昭和27年卒)

 山口勝三先生を偲ぶ 甲 國信(昭和41年卒)

 安積さんのこと 篠本(須藤)さやか

 安積先生を偲んで 相澤 崇史(平成3年卒)


磯部太郎先生のご逝去を悼んで


岩泉 正基


 昨年11月21日に磯部太郎先生が逝去されました。耳が遠くなられたのと,腰を痛め歩くのに不自由されていたようですが,その他は特に悪いところもなく,まだまだご長命のことと思っておりましたので誠に残念なことでした。ご家族のお話では2か月程前に肺炎を患われ,その後肺炎は回復されたものの,食欲が戻らず体力を消耗されたとお聞きしました。享年96歳でした。

 私が磯部先生から直接ご指導を頂くようになったのは,昭和34年に大学院を修了して東北大学非水溶液化学研究所(通称非水研)の羽里研に就職したときからでした。当時先生は羽里研で助教授を務めておられました。この頃羽里研にはVarian社の日本での1号機という40MHz高分解能NMR装置が設置されておりました。この分光器は,羽里研で昭和24年頃からNMR装置の試作に取り組み,日本で初めて31Pの化学シフトの観測に成功したという実績が評価され,文部省と内閣官房科学技術振興審議会の双方から予算を得て設置されたものでした。日本の1号機ということで全国の共同利用と,国内製造業者に対する装置内容の公開指導が義務つけられておりました。

 この装置は当時としては最先端をいくものでしたが,測定にはそれなりの熟練と細かい神経を要するもので,更に電力事情の悪い昼間をさけ深夜にのみ行われ,かつ測定は一人では行わず二人が組んで行っておりました。数少ない羽里研のメンバーのなかで助教授であった磯部先生も頻繁に徹夜をされましたが,朝まで徹夜されても通常の勤務時間には研究室に早々に戻られ仕事を始められるという,私ども若手には大変に厳しい姿勢を示されたものでした。

 私が非水研に勤めて間もなくの昭和35年に磯部先生は羽里研から独立して研究室をもたれ,ESR分光による研究を始められることになり,私がお手伝いをすることになりました。手始めに芳香族化合物のイオンラジカルの研究を始めたのですが,この頃はまだ日本でこの分野の本格的研究がなく,川口市の資源化学研究所にVarian社の日本では1号機と思われるESR装置が入っており,取り敢えずこれを利用してのスタートでした。この研究所では本学同窓生の本田英昌氏がこの分光器を管理する部門のトップにおられ助けられました。翌年日立製作所の1号機にあたるESR分光器が研究室に設置されたのですが,分光器性能の改良を求め,磯部先生は工場技術者と熱心に議論を進められ,工場に足を運ばれることもしばしばでした。

 先生はNMR分光器の試作に関わったのも含め,優れた研究には優れた装置の導入が重要との認識で,将来への研究の展開を見据えながら,新たな装置・設備の充実に力を入れられましたから,我々研究室のものにとって大変に有難いことでした。

 先生は大変に温厚かつ誠実,また寛容でもありました。研究室の若手研究者の自主的発想による研究の展開にも理解を示され,研究室内ではラジカル溶液に関連する研究から,化学的視点にたった金属錯体のESRの研究など,幅広い研究が展開されました。元気旺盛な若手の間に先生の温和なお姿がいつもありました。その後有能な若手の参加もあって,スピン化学の分野で「ESRの仙台グループ」が世界の中で認知され高く評価されているのを見るとき,その第一歩が磯部先生により踏み出されたことを思い,意義深く感じております。

 当時研究室では春の花見,秋の芋煮会などレクリエーションも組まれておりましたが,若手の輪に入っていつもにこにこされている先生の姿が印象深く心に残っております。研究所のバドミントン大会では先生とペアを組ませていただいたことがありますが,先生は結構な腕前を発揮されましたが,運動の苦手な私が大きく足を引っ張る形になりました。しかし最後まで大いに楽しめたのは先生のお人柄のせいと懐かしく思い出しております。

 先生は非水研所長や日本化学会東北支部長なども勤めており,永年の功績により,昭和62年4月に勲三等旭日中授賞に,更に昨年12月に正四位に叙せられました。

 先生のもとで楽しく充実した研究生活をさせて頂いた一人として,先生に深く感謝しながら,先生のご冥福を心よりお祈りする次第です。 

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磯部太郎先生を偲んで


千喜良 誠(昭和41年化学第二学科卒業)


 磯部太郎先生の訃報を岩泉正基先生からの電話で伺ったのは昨年12月の暮れも押し詰まったころでした.磯部先生とは先生が定年で退職されて以来,年賀状を差し上げる以外はお目にかかる機会も無くすっかりご無沙汰していました.近年いただい年賀状には,最近目や耳が衰えてなにかと不自由になってきたというような一筆がいつも書き添えられていましたが,先生のようなお年であればしょうがないかな,などとあまり深く考えずに過ごし,今年もまたいつものように年賀状をそろそろ印刷しなければなどと思っていたやさきの訃報でした.

 私が安積宏先生の量子化学研究室から当時の非水研の磯部研究室に博士後期課程の学生として受け入れていただいたのは昭和43年の4月で,ちょうど東大闘争や日大闘争などに代表される大学紛争が全国的に広がり,東北大学でもそれらの運動に呼応して,様々な政治的背景をもったグループがいわゆる一般学生を取り込み,活動を活発化している時期でした.その時期は,助教授の岩泉先生はちょうど海外留学中で研究室を留守にされており,安積研の先輩でもある横井弘先生が助手として研究室をリードされていました.その頃の私はといえば,学部で1年余分に過ごした上に,社会にも出る気にもなれず,無謀にも修士終了直後に学生結婚をして,安積先生が定年で退職されることを言い訳にして,磯部研に転がり込んだという状況でした.もっとも,学生結婚については安積研で一年先輩の三上さんにその一年前に立派なお手本を示していただいており,それに大いに触発されたとういことで,あまり自慢できることでもありません.

 博士課程に入ったその年の暮れに研究室に助手の口があるから興味があるかと磯部先生からお声がかかり,これでかみさんにあまり頭を下げなくとも済みそうだというわけで,とびついて助手に採用していただいきました.研究の面では磯部先生はとくにあれこれ指図されることは全くなく,自分の好きなテーマを自由に選び,のびのびと研究する場をいただきましたので,現在の任期制助教の立場と比べるとずいぶん恵まれた環境でした.助手になりたての頃は大学紛争がもっとも激しい時期で,しばしば実験を放り出してデモ見物に出かけたり,たまたま非水研の助手会の役員の番が回ってきたときなど,玉井先生や瀬戸先生と議論したり,いろいろ勝手なことをやっていましたが,磯部先生からは一度も叱られた記憶がありません.以来,磯部研から岩泉研にまたがって14年間,非水研にお世話になることになりましたが,その間,磯部先生にはNIHの昆先生のポストドクに推薦いただき,それが現在の私の研究領域を見定める決定的なきっかけとなりました.磯部先生は私がNIHに滞在していた間に定年で退官され,研究室は岩泉先生に引き継がれましたが,節目節目での磯部先生のご配慮が自分の人生を大きく方向づけることになったことは間違いありません.

 その後,岩泉先生のお世話で現在の大学に職を得て今年で27年になりますが,その間,ぜんぜん意識していませんでしたが,自分の学生指導は,良きにつけ悪しきにつけ,磯部流になっていたなと感じます."悪しきにつけ"という部分は,現在の大学の教育においては,学生の自主性に任せ,そのかわりにいわゆる自己責任を期待しすぎると,結果として脱落してしまう学生が出てしまうという点です.私学は学生数が多く,一人一人に目配りすることが困難だという言い訳もあるのですが,基本的にはもともと持っている自分の気質が安積研時代から磯部研時代にかけて涵養されて定着したということでしょう.不本意ながら大学を中途で去っていく学生を見送らなければならないつらい経験も重ねました.しかし,また一方では昔の卒業生から飲み会に誘われ,卒業研究でのいろいろな珍事件やゼミや学会旅行で楽しんだ思い出話などに花を咲かせる機会にも恵まれるなど,私学の教員生活を堪能もしてきました.

 岩泉先生から,磯部先生の追悼文を書くようにというお話をいただいたことがきっかけとなり,昔のいろいろなことが思い出されて,個人的なことばかりを書いてしまいましたが,それにつけても,磯部先生には長い間御無沙汰をし続けて,これまでのお礼の言葉も伝えることもないままお別れしなければならなくなったことは慙愧に堪えません.合掌.

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天野杲先生(昭和24年卒)回想


伊藤 攻(昭和41年卒)


 天野杲先生の訃報を東北大学(WPI)の板谷教授から電話で聞いた時、今までいろいろな場面で天野先生から受けたエスプリの利いた会話がよみがえってきた。天野先生と初めてお会いしたのは東北大学工学部の会議室で、主任の天野教授から非水研の新人助手として応用化学の大学院のカリキュラムなどの説明を聞いた時であった。その後、私の研究対象がラジカル反応速度であったため天野先生の研究分野に近かったので、直接・間接に多くの指導を受けた。当時、ラジカル反応はすでに確立した時代遅れの学問と思われていて、私としては孤立感を抱いていたが、天野先生のグループも脈々とラジカル反応の基礎と応用を連結した研究を続けていたので、心強いかぎりで、それを励みに研究し、時には予想外の研究の進展をみることができた。東北大学工学部の教授会で行なわれていた昼食会は助手から助教授ヘの登竜門となる発表する機会を与えていたが、そこでの私の研究発表に「基本的かつ辛辣」な質問を繰り出したのも天野先生であった。これが「天野流」の激励でもあったのだと、後になって気付いた。

 天野先生は昭和24年に化学科を卒業した直後、当時石油化学のメッカである工学部応用化学科の徳久研究室に助手として採用されたが、昭和27年には、米国プリンストン大学大学院の博士課程へ正規の院生として留学し、3年後にはPhDを取得された。この博士論文が、触媒活性が火山型になることを最初に示した論文であった。このことは当時としてはもちろん今でも驚くべきことである。天野先生から何度か米国での大学院での出来事などをお聞きする機会があったが、先生はそれとなくユーモアを交えてお話していたが、それは才気旺盛な天野先生の青年時代の姿が目に浮かぶようであった。帰国後、工学部応用化学の助教授・教授に就任し、平成元年に退官後、石巻専修大学の教授を10年余歴任された。

 その間、触媒反応を主体とした石油化学へ気相均一反応を導入し、解析が難しい可逆反応過程を考慮した反応メカニズムを確立されたことは驚くべきことである。さらにこれら基礎的知見に基づいて多くの商業化学プラントを立ち上げたことはさらに感心するばかりである。また、水素ラジカルを直接発生するという斬新な発想で、副反応の少ない反応系を確立された。天野先生の薫陶をうけた多くの人材が社会で活躍されているが、私が懇意にしている人では超低硫黄燃料を開発した山田宗慶教授や石巻市長の亀山紘さんの顔が浮かぶ。

 その間、天野先生は東北大学ゴルフ部の部長を長年務め、東北大学にゴルフ部を定着するために貢献された。天野先生のゴルフ指導は学問と同様に、理論・技術はもちろんルール・エチケットについても実に厳しくかつ愛情に満ちたものであった。私どものバンカーを打ち終わった後の"ならし"が、不十分であると、天野先生がバンカーレーキーを使って修復してくれて、それで自分のスコア―を乱すこともあったりした。また、天野先生のゴルフスイングは独特なもので、トップの形が剣術の上段の構えになっており、私どもは「"寄らば切るぞ"のスイング」と呼んでいたが、プロの目には理に適なったものと評価されていた。ゴルフの最中やゴルフ後に天野先生独特のエスプリの利いた「人生の蘊蓄」を聞くのも楽しみであった。

 色々な意味で、人生の師でもあった天野先生に「あの世」でお会いした時にはかなりひねった「歓迎の言」があるはずで、それを理解できるようにボケてはいられないと気を引き締めているところである。

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山口勝三さんを偲んで


浅尾 テル子(昭和27年卒)


 昨年8月18夜、山口勝三さんの奥様より山口さんが厚生病院に入院しているが、容態が良くないとのお電話を頂き、夫浅尾は甲さんと一緒に翌日駆けつけました。山口さんは肺炎をおこしかなりの重症で意識はなく、何も話せなかったとのこと、その後私もお見舞ひに伺いましたが全身細い管でつながれており、意識はなく、ただ眠っておられました。

 そして多くの方々の祈りもむなしく9月13日帰らぬ人となられました。

 山口勝三さんと初めてお話をしたのは丁度60年前、昭和24年の春,東北大学の一年生の分析の実験室でした。皆が帰った実験室で後片付けをしていましたら、何やらお経のような人声が聞えてきます。注意して聞くとどうやら部屋の中央にあるドラフトの中のようなので、そっと開けてみると何と山口さんが正座していました。びっくりしましたが、とても面白そうな人だなと楽しい気分になりました。それから3年、私達のクラスはよくまとまって、活き活きと希望に燃え勉学に精を出し、昼休みなどは化学教室の前でバレーボールをしたり、実験が早く終った日などは大勢でダンス教室に押しかけるなど、楽しい学生生活でした。

 卒業後、山口さんは東北大学第二教養部に勤務され、昭和44年には東北大学教養部の教授に昇任され、その後東北学院大学に移られ、化学に関連して多彩な分野で活躍されました。そのご業績を要約しますと;

@多くの学生の化学教育・研究に誠心誠意尽力され、日本化学会より、平成6年度「化学教育賞」を授与されました。受賞の内容は「化学教育の活性化および化学普及への貢献」であります。

A多くの研究論文がありますが、特筆すべきことは、不斎反応化学の分野において光学活性化合物の組成と絶対配置を同時決定する手法を開発され、これによって多くの不斎合成反応における達成度の評価を容易にし、この分野の発展に大きく貢献されました。

B環境問題に科学的観点から積極的に取り組まれ、酸性降下物に対する森林腐食質の緩衝効果が極めて大きいことを見出され、同時に「環境の科学・われらの地球・未来の地球」の著書等を通じて地球環境問題に対し、学生はもとより一般市民の関心の喚起にも大きな成果を挙げておられます。

 山口さんは仕事においては真面目で厳しい方でしたが、落語を愛するユーモアと人間味に溢れ、手品・写真・ダンス等多くの趣味を持たれ、いつもにこにこしてお元気で何でも話せる良きクラスメートでした。私達のクラスは30名ほどで仙台でのクラス会は、いつも山口さんと一緒に世話人をつとめました。クラスメート一人一人をとても大事になさり、最近は体が不自由になられた方も数名おられますが、出来るだけクラス会に出席出来ますように、いろいろ工夫されておられました。数年前私が作って使用しているカスピ海ヨーグルトを少し分けて差し上げましたら、とても喜んで会う度ごとに「まだ続けて作っているよ」とにこにこしておっしゃっていました。朗らかでやさしく、てきぱきと仕事をされ、このような立派な方がこんなに早く逝かれてしまわれた事残念でなりません。

 昨年12月6日「山口勝三先生を偲ぶ会」(世話人;村田一郎さん、甲国信さん、他4名、代表 浅尾豊信)を呼びかけましたところ、写真にもありますように、東北大学および東北学院大学関係の多くの方々が参加して下さいました。そして山口さんが喜ばれ満足して頂けるような会が出来ましたこと、ご出席の皆様方に私からも厚く御礼申し上げたく存じます。

 奥様と二人のお子様もお元気に過しておられます。山口さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

山口先生を偲ぶ会


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山口勝三先生を偲ぶ


甲 國信(昭和41年卒)


 旧教養部化学科に長年勤務された山口勝三先生(昭和27年卒)が昨秋9月13日、肺炎のために亡くなられた。8月に入院されてから、ひと月も経っていなかった。6月に旧教養部の有機化学のOBが、仲間の退職を祝って集まったときは、いつものように朗らかに振る舞っておられたし、また、具合が悪いときは、すぐに病院に行かれるのが常だったから、しばらくしたら退院されるだろうと深刻には考えていなかった。あの朗らかな笑顔と賑やかな声を、もう見ることも聞くこともできないと思うと残念である。

 私は、教養部化学科の助手に採用された昭和43年から昭和57年までの間、先生と同じ部屋で過ごした。この間、学位論文の指導をいただいたのをはじめ、先生から多くのことを教わった。先生の想い出は多いが、ここではその一端を記させていただく。

 私が山口先生を初めて知ったのは、教養部2年の化学実験のときである。当時三十代半ばの先生は、準備室の窓口に頑張って、器具や薬品を請求に来た学生に、ぽんぽん威勢よく質問し、予習不足と見ると追い返す厳しい先生だった。先生の講義を受けたことはなかったが、あとで、先生が学生から「鬼」の称号を奉られていたことを知った。見せて頂いた先生の講義ノートは、几帳面な字でかなり高度なことまで書いてあり、この称号がうなずけた。私と同世代のある学部の先生から聞いたところでは、その先生は、教養部時代に不運にも「山勝」の餌食となったそうである。山口先生は、この先生をよくご存知で高く評価しておられたから、このことを知ったらどんな顔をなさるだろうか。さすがに晩年は「仏」に近づかれたが、講義にはつい身が入って、時間どおりには終わらず、学生を困らせておられた。

 山口先生は「鬼」と格付けされてはいたが、話がおもしろく気さくだったから、学生から人気があった。部活に夢中になったために川内を脱出し損ね、研究室に置いて欲しいと訪ねて来た学生が、時期は異なるが三人いた。「卒業生をもてない教養の教師は、通過駅の駅長みたいなもの」と、嘆いておられた先生は、こういった学生が来ると喜んで引き受け、居場所を与え、手のすいたときには楽しそうに相手をしておられた。川内を無事脱出した彼らは、その後失速することなく全員が博士となって、現在、開業医や企業人として活躍している。

 山口先生は不斉化学、環境科学、化学教育の分野で活躍されたが、先生の研究面で私が特筆したいことは、国内に不斉化学の研究者がほとんどいなかった時代に、この分野に着目し、飛び込まれたことである。この分野がその後目覚ましい発展を遂げたのはご承知のとおりであるが、大げさに言えば外界から孤立しているような当時の教養部にあっても、先生が意欲的であり続け、研究の重要性、将来性を見る確かな目を養っておられたことに敬意を表する。昭和45年に不斉合成の先達であるスタンフォードのモッシャー教授のもとに留学され、不斉修飾した水素化アルミニウムリチウムを用いるケトンの不斉還元において、それまでの記録(40%ee)をはるかに超える高い不斉収率(80%ee)を達成された。野依先生の不斉反応の分野への登場は、この報告のしばらく後である。帰国後始められた「モッシャー試薬とランタニドシフト試薬を用いるNMRによるエナンチオマー組成と絶対配置の同時決定」の研究は、盛んになりはじめた不斉反応の評価法として注目された。この仕事は山口先生の一番のお気に入りだった。 

 先生の探究心と実験好きは本業以外のところでもユーモラスな形で発揮された。まだ、今のように大きなエビが安く手に入らなかった時代、どうすれば小さなエビを使って、大きなエビの天ぷらのようにみせられるかを工夫したとか、柿のジャムが市販されていないのを不思議に思い作ってみたとか、台所を舞台としての研究の話を聞かされた。柿のジャムは渋くて食えないものしかできず、市販されていない理由がわかったとのことである。

 先生は大の落語好きで、普段の会話も落語的だった。30年も昔のことだが、その年も科研費が貰えないことが分かったときに、お茶をすすりながら言われた「貧乏は恥じゃないよ…..でもちょっと不便だ」は、負け惜しみに本音が混じってなんともおかしく、山口語録のなかでも私が特に好きな言葉である。亡くなられる1、2年前、先生が中心となって培風館から出版された環境科学の教科書を改訂するのに大忙しだった頃、どなたかの訃報を電話でお知らせした時、言われたのが「あー忙しくって、忙しくって、死んでる暇ないよ」である。改訂が終わって間もなくして、先生は突然亡くなられた。暇ができてしまったのである。

 予定の字数が来てしまった。最後に、長い間にわたりお世話いただいたことに感謝し、ご冥福を祈って筆をおく。

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安積さんのこと


篠本(須藤)さやか


 安積さんが亡くなった。メールをいただいて、ああ、本当にもういらっしゃらないのだと思った。「末期癌がみつかりました」という驚愕の寒中見舞から約2年。化学療法が奇跡ともいえる効果を発揮して一時はとてもお元気そうになられ、まだまだ長い間いてくださるような錯覚さえ覚えていたのに。安積さんの下にいたのはたった3年だが、私にとって研究ということの原点はこの3年間にある。だから、安積さんが亡くなったことで、なんだか座標軸の原点が消えてしまったような気さえした。

 安積さんといえば、どなたもその研究に熱心であったことに言及されるが、それと同じくらい学生を育てることを大切にしておられた。その一つの現れが、学生に配っていただいた綿密な講義メモである。メモといっても教科書より詳しい。普通の教科書では行間にしか書かれないものまで説明し尽くそうという、学生にとっては全くありがたいものであった。最近のものは分子科学会のアーカイブで見ることができるが、私の手元には昭和57年版の、あの独特の丸っこい手書きの文字も懐かしい「スピンの関与する分子分光学」と題するものがある。そのPrefaceを読むと、安積さんの熱気の籠った口調が耳に蘇り、また一番良い講義をするためにはどうあるべきか全力で思案するご様子がありありと浮かんでくるのである。

 3年生の学生実験ではレポートを英語で書かせた。今から30年前にである。当時、学部生を相手にそんなことをする先生は他にいらっしゃらなかった。この時のレポートはしばらく宝物扱いで保存していたが、引っ越しを何度かするうちにさすがに失くしてしまった。どんな英語を書いてどんなふうに添削していただいたかは綺麗に忘れてしまったが、これからは世界を相手に「研究」をするんだということを感じてワクワクしたのはよく覚えている。このワクワク感が、4年生で安積の研究室を選ぶ大きな要因となったものである。

 そうして研究室に配属になると(当時は助教授でおられた)「ぼくのことはあずみさんと呼んでよ。ここでは先生ってのは(教授の)中島先生だけだから。」とおっしゃった。ひよっことも呼べない4年生でも研究者としては同じ土俵にいるんだよ、というのである。他方、ご自分では直接実験をしないとも決めておられた。「だって自分でやると、そっちに一所懸命になっちゃって君たちのことが見えなくなるから」とのことであった。当時はそんなものかと思っていたが、今自分が若い人を指導する立場になってみると、これがいかに歯がゆく忍耐のいるものであるかがよくわかる。

 安積さんは研究に対して、いや多分人生全般に対してとても情熱的だった。データが出ない時は苦しい。苦しんで頑張って、そうしてやっと面白い結果が出たら「夜中でも廊下で誰彼なく捉まえて話したくならない?」と、淡々と実験に取り組む学生にさも不思議そうに尋ねておられた。だから発表するときは、こんなに面白いことがわかったんだから是非聴いてくれというスタンスでなくてはいけなかった。あれは卒業研究、つまり初めて研究発表をする時だったと思う。スライドの原稿を安積さんにお見せした。自分ではそれらしく小奇麗に纏めたつもりだったが、一瞥して「こんなこと話して楽しいの?」と聞かれ愕然とした。話す人が一番面白いと思っているはず。面白くもないことを聴いてくれというのはおかしいでしょう。言われてみれば当たり前のことである。以後、少なくとも自分が何を面白いと思っているかを明確に示すように心掛けるようにしている。

 安積さんはいつでも一所懸命だった。失礼を省みずに言えば、何事に対しても、例えば体力維持のために夏に宮教大のプールに通うというようなことでも、垢抜けないまでに真剣に取り組んでおられた。残りの時間がわずかになった時に、安積さんは研究者としてまた教育者として最後まで現役であり続けることを望まれ、なりふり構わずこの目標に全力投球された。2008年5月に安積さんのご希望もあって研究室の関係者が「励ます会」なるものを催したのだか、このとき励まされたのは、実は私たちの方だったような気がする。今後も安積さんは、日々の雑事を言い訳に目標を見失う私をその最後の日々の思い出で叱咤してくださるはずである。

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安積先生を偲んで


相澤 崇史(平成3年卒)


 平成21年12月安積先生が癌で亡くなられた。先生は、1957年東北大学理学部化学科卒、そのまま大学院に進学された。大学院在学中にフルブライト留学生としてルイジアナ州立大学に留学されている。1966年から東京大学物性研究所助手を務められ、1969年に東北大学理学部化学科助教授として母校に戻ってこられた。1986年に教授に昇進し、1998年の退官を迎えることになる。私は、先生が教授になられた後の平成2年(1990年)に、大学四年生で安積研究室に配属され、平成8年の大学院修了まで研究の基礎を勉強することになった。

 研究室に配属になる1年前の大学三年生の時に安積先生の講義を受けたが、毎回配られるレクチャーノートに圧倒された。レクチャーノートはファイル3冊に綴じられて今も私の手元にあるが、現在はインターネット上(http://j-molsci.jp/archives/index.html)にも「学部学生のための量子化学講義ノート」として公開されて、誰でも閲覧出来るようになっている。このノートの分量から推察されるように、先生は教育熱心で、また非常に厳格であった。このことは、レクチャーノートに他の教科書の間違いを指摘する記述が見られることからも、容易に推察出来る。特に、言葉の定義や単位、論文を読む際の式の導出には妥協を許さない先生であった。安積研究室には「イソプロパノール(IUPAC名2-プロパノール、慣用名イソプロピルアルコール)」など、先生のスイッチをオンにしてしまう要注意ワードがいくつか存在した。

 また、こんなエピソードもある。土曜日の昼下がり、教授室の隣の談話室で先生と会話していたとき、「最近の学生は土曜日に学校に来ないんだよ。どうしてだろうね。」と質問された。「大学に入学したときから週休2日制の学生が研究室に配属になっています。土曜日は休むという習慣が付いているのではないでしょうか。」と答えたが、研究が面白いなら休みなんて関係ないと考えている先生には、「僕が学生の頃には日曜日も来たものだけれどなぁ。」と寂しそうな顔をされたことを覚えている。

 私が大学院在学中に安積先生は還暦を迎えられ、反応研(現多元研)の山内先生の音頭で秋保温泉で盛大な還暦祝いを行った。前の日まで赤いちゃんちゃんこは着ないとおっしゃっていたにもかかわらず、やはり沢山の教え子に囲まれたのが嬉しかったのか、恥ずかしそうに袖を通し、笑顔で赤いちゃんちゃんこを羽織っていたことが想い出される。

 東北大学退官後も、ミネソタ州立大学秋田分校、秋田・国際教養大学で教鞭をとられ、なんと亡くなる1ヶ月前まで講義を行っていたと聞いている。先生は本当に最後まで教育者としての人生を全うされたように思う。その点では、先生は死ぬまで教鞭をとりたいという先生の望んだ人生を送られたのではないかと推察される。

 2007年に癌が見つかり、安積研卒業生で2008年5月に安積先生を囲む会を仙台で開催したのだが、そのときは非常にお元気そうで、本当に末期癌なのか信じられない状態であった。癌発見後、一時は化学療法の効果が現れ、癌は小さくなったようであるが、残念ながら現代医療の限界で完治させることは不可能であった。

 安積先生のお別れ会で、卒業生と話をしていると、言葉の定義や単位などが妙に気になるなど,安積先生の影響が表れている人が沢山おられることに驚かされた.先生のご指導は確実に次の世代に受け継がれているので、安積研卒業生一同、安積先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、我々の今後を見守って頂きたいと思う。

山口先生を偲ぶ会 山口先生を偲ぶ会 山口先生を偲ぶ会 2008年5月安積先生を囲む会にて

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