新任教授寄稿


仙台着任15年目を迎えて


物理化学講座 理論化学研究室 美齊津 文典


美齊津先生


 本年(2009年)4月1日付で物理化学講座(理論科学研究室)教授を拝命いたしました美齊津(みさいづ)文典と申します。1995年に愛知県岡崎市の分子科学研究所から化学教室に異動して以来、講師、助教授(准教授)を経て、この度研究室を任せていただけることになりました。今後ともよろしくお願いいたします。美齊津(美斉津、美斎津と書く人もいる)という姓は、画数も多く呼び名としても変わっているせいか、珍しいとよくいわれます。私も仙台に転任後数年たった後でも、新学期の学生オリエンテーションの教員紹介のときに、時の専攻長から正しく呼んでもらえなかった記憶があります。ただこの姓は、長野県東部によく見られ、人数としてもそれほど珍しくないようです。仙台転任から今年で15年目を迎え、教員の中でも古株になってきたと思います。当時から長町に住んでおりますが、今のモールの場所がまだ東北特殊鋼の跡地で、昼間はほとんど人通りのない通りだったのを思い出します。それがあと数年で青葉山にも地下鉄が開通することになり、まさに隔世の感があるといえます。

 私の専門は気相の分子や分子小集団(クラスター)の構造と反応動力学です。学生時代(東大理・朽津耕三先生の研究室)には、近藤保先生(残念なことに先日お亡くなりになりました)にご指導いただいて、高いエネルギーに励起された原子との衝突電子移動による分子クラスター負イオンの生成と安定性を質量分析法によって研究して、学位を取得しました。委託大学院生として移った分子研では、電子状態動力学部門の西信之先生の研究室で、レーザーを用いた共鳴イオン化と反射飛行時間質量分析計(リフレクトロン)を用いた準安定解離の研究を行いました。その後助手として移った機器センター(富宅グループ)では、レーザー光イオン化やレーザー誘起蛍光、光解離分光、光電子分光などの手法を用いてさらに研究を続けました。特に富宅喜代一先生のグループでは、アルカリやアルカリ土類の金属原子と、水やアンモニアなどの極性分子とからなる「金属原子溶媒和型」または「金属−分子複合型」と呼ばれるクラスターを主な対象として研究しました。研究を開始した1990年頃には、このような形のクラスターは世界でもほとんど研究例がなかったので、測定ごとに新しい興味深い現象を発見することができました。このようなクラスター系は、その後国内外で盛んに研究されるようになり、おかげで当時の論文は軒並み100回以上も引用していただくようになりました。東北大への転任後は、分子研で行ったこのような研究系をさらに拡張して、金属原子と分子との間のクラスター内電子移動現象や、それによって誘起される反応の観測を進めてきています。その結果、電子移動誘起クラスター内重合反応の発見 (1999年)や、単一光励起状態から放出角度分布が異なる複数の光誘起解離過程の発見(2004年)といった興味深い発見をすることができました。これらの成果が、今春からの教授昇任の際にご評価いただいたと考えております。

 新たな研究室での主なテーマの一つとして、ここ数年開発を行ってきたイオン移動度分析による構造異性体選択を進めていこうとしています。これは、原子分子クラスター研究の新たな方向性として重要であると考えています。すなわち、クラスター分野では過去30年間、サイズ選択によって構成粒子数を特定して性質を研究する研究が行われてきました。しかしこのような研究では、特に大きなクラスターでは複数の構造異性体が共存しており、それらの混合物の性質が現れてしまいます。そこで、サイズに加えて異性体も特定して物性や反応性を研究することによって、より優れた機能性を持つ化学種の発見や、凝縮相や表面・界面微視モデルとしての性質の解明が可能になると期待しています。もう一つのテーマとして、今まで用いてきた飛行時間質量分析計とイメージング型分析器を組み合わせた、新たな動力学研究装置の開発を進めようとしています。学生時代から実験装置は自作(工作は無理としても少なくとも設計は自分でやる)が基本でしたので、その方針を守って、世界でも唯一といわれるような実験装置の開発を実現していきたいと考えています。

 最後に、学生や院生の諸君が、それぞれの研究テーマを進めながら、理学研究の楽しさや興奮を味わえるような研究室を作っていこうと考えています。大発見とはいえないにしても、世界で自分しか知らないような現象を見るということの感動が、理学を研究する上での最大の醍醐味だと思います。またいずれ、そのような学生たちが研究室を卒業して就職先を探すときには、同窓生の皆様に多々お世話になるかと思います。特に昨年来の不景気のために就職活動がかなり難航している話も伺っております。学生からご連絡がございましたら、なにとぞよろしくお願い申し上げます。



忘れられない言葉に導かれた旅


東北大学多元物質科学研究所 高橋研究室 高橋 聡


 1988年の7月ごろ,化学教室の修士二年生だった私は,意を決して指導教官だった安積徹先生の居室に入りました.当時,安積研では化学反応の磁場効果の研究を開始したところであり,私はNMRのプローブ中でラジカル反応を計測するテーマに取り組んでいました.物理化学が好きだった私にとって,スピンハミルトニアンを使った磁場効果の説明や,パルス系列で核スピンの動きを工夫する実験はとても面白いものでした.しかし,面白いけれども,何かが足りないのです.半年以上も迷った末に,この日,博士課程では研究室を変えて生体分子を研究したいと安積先生に相談しました.

 先生と話したのは30分ほどだったと思います.先生は開口一番に「それは大変よいことである」と賛成してくださり,「それでは分子科学研究所の北川禎三先生の所に行くといい」と言って,その場で北川先生に電話をかけてくださいました.引き止められるかもしれないと思っていた私は,この時,安積先生が私の判断を心から喜んでくださったことに心底感じ入りました.私の研究者としてのスタートは,この30分間に決まったとも言えます.この時は,私が研究テーマ選びを本気で考えた最初の機会でした.

 私が研究テーマ選びを再び意識するようになったきっかけは,渡米中の指導者との会話です.私は,北川先生の指導により学位を修得した後に, AT&Tベル研究所の博士研究員として渡米し,Dr. Denis L. Rousseauの研究室で生体分子の構造とダイナミクスを調べる研究に熱中しました.あるとき,同じ分野の優秀な若手研究者の将来性についてDenisの意見を求めたところ,私の予想に反して「No, he needs a problem to be a good scientist.」という答えが即座に返ってきて驚きました.優秀で活発に論文を書いていても,「problem」と言えるほどの研究テーマを持たなければダメなのだと理解しました.

 単身で渡米したので,週末は結構時間がありました.「今日は将来のテーマだけについて考えよう」と決めてさまざまな可能性を書き出したり,生物系の文献を多く所蔵しているラトガース大学の図書館に通って手当り次第に文献を読んだり(閉館間際に文献を見つけ,迷惑そうな司書の方に無理矢理コピーをとらせてもらったりしました),分野外のセミナーにも積極的に参加するなど,大変じたばたしました.ベル研究所にはfMRIを開発された小川誠二先生が居られましたが,ヘモグロビンの研究者として出発された先生が,脳という対象に果敢に取り組んでいるという選択にも圧倒されました.当時の知的欲求と焦燥感が入り交じった感覚は,15年過ぎた現在でも鮮明に蘇ります.

 私が研究テーマとして最終的に選んだのは,タンパク質の折り畳み問題です.タンパク質はアミノ酸が一定の配列に従って一次元的に並んだ高分子です.また,一次配列の情報のみを使って,自発的に活性を持つ構造に折り畳まる特性を持っています.勉強を続けるにつれ,この問題は物質科学の立場から生命とは何かを問う重要性を持つことに気づきました.生物学者や化学者は,タンパク質は構造を持つ有機分子であり,折り畳まれて当然と捉えることが多いようです.一方で,高分子の統計力学を基礎とすると,高分子が一定の形をとることは「ありえないほど不思議な現象」と言わざるを得なくなります.理屈では不可能なことを生命は可能にしているとも言えます.この問題には,人生を賭ける価値があると確信するようになりました.

 帰国後,私は京都大学と大阪大学においてパーマネントの職を得て,その時々の学生さんなどの多くの方々の協力により成果を挙げることができました.最近では,タンパク質が折り畳まれる運動を一分子レベルで観察する新しい方法を開発したことを研究室の誇りとしています.東北大学では,一分子観察データを基礎とした分子科学としてのタンパク質研究を進めるとともに,タンパク質生合成過程などの生化学的な現象への展開も図ろうと考えています.スタッフとの議論などを通して,さまざまな研究の可能性にわくわくする毎日です.

 私が一旦東北大学を離れることとなった理由は,私の求める何かが当時は無かったからなのだと気づきます.そして,その何かを部分的にでも補強することが,私が東北大学に戻る意義だと思います.皆様,どうぞよろしくお願いいたします.

 つい先日亡くなられました安積先生のご冥福を,心からお祈り申し上げます.安積先生には,学位修得直後にも進路の相談をお願いしました.留学のタイミングについて,「海外に絶対に行くべきである.半年でも数ヶ月でも早く行った方がよい」との即答をいただきました.このアドバイスが無ければ私は留学しなかったかもしれません.本当にありがとうございました.

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