大野 公一先生御退職特集


御退職寄稿 理学に魅せられて 大野 公一
大野公一先生ご退職によせて エモリー大学化学科(日本学術振興会特別研究員PD) 前田 理
大野公一先生のご退職によせて 和歌山大学システム工学部 山門 英雄


理学に魅せられて


大野 公一


大野先生


 私が理学を志すようになったきっかけは、子供の頃、父が東京に出張した折におみやげとして買ってきてくれた「工具セット」や「組み立てキット」、そして「模型とラジオ」という本でした。父は、「公一、面白いものを買ってきたよ」と言っておみやげを手渡してくれただけで、それ以上一言もなく、組み立てキットの製作に一切手を貸してはくれませんでした。必然的に、自分独りで説明書を読み疑問点を解決しつつ、苦労して組み立てキットを作りあげて行くことになりました。エナメル線でコイルを巻き、ビニールと金属板のパーツを重ね合わせてバリコンを作り、部品を1つずつ所定の位置にセットし、はんだ付けをして、組み上がった鉱石ラジオのイヤフォンから、NHK第一放送が流れてきたときの感動は、いまでも鮮明で、忘れることができません。北海道の札幌で育った私にとって、当時は汽車と連絡船で1昼夜もかかる遠い内地の東京で行われている番組が、自分で作ったラジオから聞こえてきたことに大変驚きました。

 「模型とラジオ」という本を見ると、組み立てキットは他にもいろいろありました。父の次の出張まではとても待てず、お年玉などを貯めた自分のお小遣いを使って、真空管アンプの組み立てキットを東京まで注文して取り寄せ、鉱石ラジオの音声をもっと大きな音で聞けるようにしました。さらに調べてみると、「並三」や「並四」というものがあります。並三は真空管を3本、並四は真空管を4本使ったラジオです。東京へ組み立てキットを注文するのは、時間もかかり送金もしなくてはいけないのでめんどうです。「模型とラジオ」の片隅に載っていた広告をよく見ると、札幌にも模型やラジオを扱う店がありパーツの専門店もあることがわかりました。札幌の街は碁盤の目をしていて、何条何丁目というと、どの辺りかがすぐわかります。小学生の私にも、その店の場所はすぐ見つけることができ、お小遣いの残りと相談しながら、部品をとりそろえ、工具も補充しながら、「並三」や「並四」を製作しました。

 街の本屋さんに行くと、ラジオやオーディオアンプなどの自作を促す本がいろいろあり、何冊か買って調べてみました。すると、真空管を5本使った「5球スーパー」、さらには「高一中二(高周波一段増幅・中間周波二段増幅の略称)」というのがあり、どんどん、それらの製作にのめりこんで行きました。最初は、部品を集めて作ることに興味が集中しましたが、そのうち、各部品の機能や素材、そして背後の原理にも関心をもつようになって行きました。ラジオだけではなく、望遠鏡なども作りましたし、いろいろと夢中になりました。「制作する・原理を考える・性能の改善を企てる」こうした原体験が、私自身のその後を誘導し、いつしか理学に深く魅せられて行きました。

 話しは変わりますが、ラジオなどの製作に夢中になった小学生時代に、私にはたいへん辛い体験があります。小学四年の11月のある日、朝起きると尿がコーヒーみたいになり、手足や顔が腫れあがり、すぐお医者さんにみてもらうことになりました。急性腎炎ということで、食事は無塩食、タンパク質もダメ、味気ない食事が始まりました。もちろん学校には行けません。入院は避けられたものの、自宅監禁のような生活で、自分で作ったラジオを聞いたり、本を読んだり、外の世界と隔絶された療養の日々が続きました。3月初旬になり3学期もあと少しという頃に、担任の先生が初めて私の家にやってきて、いわく、「4か月も休んでいるので、勉強の遅れを取り戻すのは大変です。もう一度四年生をやるのが普通ですが、どうしますか?」という「落第勧告」のようなものがありました。「どうしますか?」ということなので、普通はつけられないはずの成績を「見込み点」ということで処理してもらい、なんとか落第を免れました。その後も自宅療養は続き、学校に行けるようになったのはGW明けの5月初旬で、結局、半年間連続して学校を休むことになってしまいました。

 母に付き添われて久し振りに小学校の職員室まで行き、そこからは一人で、クラス編成替えがあったため未体験の新しいクラスへと恐る恐る廊下を歩いて行くと、元のクラスの女の子が、「大野さん、元気になったの!よかったね!」などと優しく声をかけてくれました。さらにもう少し行くと、今度は男の子から、「大野! おまえ、まだ生きてたの!とっくにお墓に入ってると思ってた!」という手荒な歓迎?の言葉がやってきました。

 学校に行きたくても行けないという体験は、これで終わりにはなりませんでした。卒業まであと少しという小学六年の1月末に再度急性腎炎になってしまったのです。今度は即入院。病室から母が去って独り残されたところへ、病院関係?の女性が入ってきていわく、私のベッドを指さし「このベッドの人、よく亡くなるんだよね!可哀そうに、このあいだも亡くなったし、その前の人も!」。心細くしている入院直後の小学6年生にとって、これは「天国直結ベッド」の宣告で、「自分もここで生涯を終えるのか?もう自宅や学校には戻れないかも?」などと、非常に不安を覚えました。幸いこのベッドのジンクスは、私には当てはまりませんでした。入院生活は5月末まで続きましたので、小学校の卒業式には出られず、中学の入学式にも出られませんでした。そして、大幅に勉強が遅れハンディを背負った状態で、6月の初めから中学校での生活が始まりました。 ・・・・・

 以上は、この3月の最終講義のときにお話したことの一部です。予定の字数を超えましたのでここでおしまいにします。小学生のときに寿命が尽きていたかも知れない私が、理学を思う存分楽しみ、そして今また、東北大学退職後も、好きな理学に自由に打ち込んで行けるというのは、たいへん幸せなことだと感謝しております。

 東北大学在職中は、多くの方々にご支援いただき、また、大変お世話になりました。皆様の益々のご多幸をお祈りいたします。

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大野公一先生ご退職によせて


エモリー大学化学科(日本学術振興会特別研究員PD) 前田 理


 大野先生、ご退官おめでとうございます。平成12年10月の研究室配属以来約9年間という長期に亘りお世話になっております。

 「研究と教育とを両立する」、という信念をよく大野先生がおっしゃっていました。それは、授業や教科書の執筆などといったまさに教育現場におけるご活躍と研究活動とを両立されていたこともそうですが、研究自身の中においても常にそうであったと思います。ただ研究テーマを与えるだけでなく、我々学生とよく討論し、また、着想の経緯や背景を熱心に説明していただき、研究の楽しさを学ぶことができたと感謝しています。当時は、「話が長すぎて何時間もトラップされた」、などと愚痴を言っていましたが、その中から学ぶものが非常に大きかったと感じています。

 配属から一月程度たった頃、先生が開発された2次元ぺニングイオン化電子分光法の実測と理論計算との不一致をモデル相互作用ポテンシャルの最適化によって解決する、という卒業研究テーマを与えられました。それから約半年後の夏休み、私が大学院入試の勉強のために研究室にいた際に先生から呼び止められました。「新幹線での移動中に思いついたんだ」とおっしゃられ、とても嬉しそうに新しいアイディアとその背景を説明していただいたのを覚えています。今思えば、そのアイディアが非常にうまく働いてこの問題を解決できた、という過程とそれを思いついた経緯とを両方同時に見せていただいたことで、研究の面白さに触れ、研究者に進むことを決意できたと思います。

 大野先生には、私が修士課程1年の4月から5ヶ月程度、日曜以外の毎朝8時から10時頃まで、F. Jensen著「Introduction to Computational Chemistry」を輪読していただきました。やっているときにはとても大変で、辞めたい気持ちもありましたが、これをしていただいたことによってその後の研究生活が大きく変化し、私の計算化学者としての道が開けたと思っています。ただ読むだけでなく、その本の中で紹介されている様々な計算化学的手法について、問題点や改善点を一緒に討論しました。連日の討論の中でも、ポテンシャル表面の探索に関する章での先生のアイディアが最も強く印象に残りました。それは、実際のポテンシャル表面と近似的な調和ポテンシャルとの差(非調和歪み)が極大となる方向を、超球面を用いて追跡すれば、反応経路を自動的に求められるのではないか、というものでした。「でも、反応経路はたくさんあって、系統的な探索には超球面上の全ての非調和歪みを求める方法がまずは必要だね」、というところまで議論したことを覚えています。輪読を終えてから約3ヶ月後、急にこの話を思い出し、超球面上の全ての非調和歪みを求める方法を考え始めました。その後そのためのプログラムを完成させ、「あの問題を解決できました」と報告したところ、とても喜んでいただいて、こちらも非常に嬉しかったのをよく覚えています。その後の私の博士課程および博士研究員としての研究は、この輪読をしていただいたことによって始まりました。

 大野先生との討論は我々学生を激励し、さらに研究が発展する方向へと導いてくれました。「これをしなさい」と無理やり押し付ける感じは一切なく、いつも熱心な討論で面白さを感じさせ、こちらをやる気にさせてくれました。あの輪読のときもそうでした。様々な困難にも負けず、ここまで研究を続けてくることが出来たのは、まさにそのおかげであると思います。また、先生のそのような姿勢を学べたことは、これから研究を続けていく中でさらに大きな意味を持ってくると思います。

 大野先生は現在も豊田理研で研究を続けておられます。アメリカでのお昼過ぎ(日本時間の深夜0時過ぎ)にメールの返事が返って来たりして、まだまだ現役でお忙しくされているんだな、と感じます。今後も益々のご活躍を期待しております。

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大野公一先生のご退職によせて


和歌山大学システム工学部 山門 英雄


 私は1992年(平成4年)から1997年(平成9年)の約5年間、助手として研究室で過ごさせて頂きました。近くにいた者としての印象を、以下に記します。

 1.スポーツが非常に得意。(特にスキーの上手さ、キャッチボールにおける球質。これらの背後には、力学等に基づいた深い理論的考察が存在する。)
 2.研究者としての優秀さ。(緻密な考察、斬新なアイデア、集中力。)
 3.教育者としての優秀さ。(良い問いかけをなされる。学生の側からは見えにくいかもしれないが、実に深く考えて学生を指導なさっておられると感じました。)

 問いかけという意味で、私個人として印象に残っているのは、雑談時に、「サイエンスは論理の繋がりで押せるけれども、日常生活はそうはいきませんよね」という趣旨のことを私が言った時に、「どうして?」と問い返されたことで、私は大野先生の日常までも含めた論理的一貫性を改めて感じるとともに、御家族(特に奥様)には人知れずご苦労があったかもなぁ…などと思った次第であります。

 この3月、立派に長年に渡る大役を果されて定年をお迎えになったことをお祝い・感謝申し上げますとともに、今後の一層の御発展・御活躍をお祈り申し上げます。

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