追悼


森岡さん(森岡義幸先生)を悼みつつ  大畑(蔦) 典子

関篤子さんの死を悼む  五十嵐 久子

久保田尚志先生への追慕  納谷 洋子

池田鎮彦(昭和35年)さんを偲んで  小村 寛

千葉公夫君を悼む  佐久間 泰彦

敬弔森山弘明君  木羽 敏泰

堀野 博君を悼む  佐藤 成一

三好宗次君を悼む  青野 茂行

小幡先生を偲んで 角野雅恵



森岡さん(森岡義幸先生)を悼みつつ

                  大畑 典子(旧姓:蔦)昭和50年卒

 平成16年1月22日に,森岡先生の訃報を受けた。お正月に,私の仕事や家族について近況メールをお送りしたきり,お別れになってしまった。前年の7月,「大学の仕事に復帰しています」というメールを頂き,研究への復帰を心からお喜びしていたのに。残念でならない。

 私たちが大学3年生の冬頃だったと思う。結晶の粉末X線写真を撮影し解析する実験をユーブングで学んだ。大変興味深い実験だったが,それが,森岡先生(当時は助手)に指導を受けた始まりだったように記憶している。それまで学生実験で指導を受けた先生方のなかでも,森岡さんは飛び抜けて若く見えた。淡々と的確な説明をされたのが印象に残っている。

 私はもともと固体物理に興味があったので,4年生になって,田村さん,笠間さん,藤原さん,伏木さん,秋山さんとともに,理論化学研究室に所属した。そして,伏木さん,秋山さんと私の3人のそれぞれが,イオン結晶の赤外・遠赤外スペクトルに基づく格子振動の研究で,森岡さん(私たちは親愛をこめてそう呼んでいた)のご指導を再び受けることになった。

各々のテーマが決まるとすぐ,森岡さんは次から次へと勉強すべき内容を私たちによどみなく示した。空間群・ブリュアンゾーン・単結晶の遠赤外反射スペクトルで観測されるT-L splittingの理論と測定・分子分光学から結晶分光学へ・Chemical Abstractsでの文献検策・単結晶の結晶面を切り出すこと・その結晶の先端でX線写真を撮影・単結晶の遠赤外反射スペクトル測定法・等々を,6月までに手ほどきされた。

私などは,四苦八苦青息吐息状態で,毎日を,文献と新品の日立070型フーリエ変換遠赤外分光器を友として暮らした。森岡さんの精力的なご指導を受けた結果,私のようにぼーとしている人間でも,格子振動への興味は高まるばかりだった。

 理論化学研究室では,ちょっと一休みの時間に,岩永さんが紅茶を入れてくださった。セミナー室にそぞろに寄り集まっていただくおいしい紅茶はみんなの楽しみだったのではないだろうか。國分先生,菊地さん,根本さんはもとより,小西さん,浜田さん,徳村さん,氏家さん,河田さん,山本さん,そのほかの先輩たちも研究の手を休めて集まってくるのだった。森岡さんも研究周辺の話題はもちろん,登山の話なども楽しそうに話しておられた。

 またしばしば,夕方になるとバイオリンやフルート,リコーダー,クラリネット,ギターなどを思い思いに持ち出しては,研究室内で,ミニ・アンサンブルが始まるのだった。私は,このアンサンブルに加わって演奏するのも,聞くのも楽しみだった。森岡さんは,ドイツ製の木製アルトリコーダーを好んで演奏された。割り切れたような通りのいい音で,人柄を感じさせる安定的な音色だった。

 特筆すべきは,森岡さんの文学・音楽・美術への造詣の深さである。クラシック音楽,なかでもオペラを愛し,トスカ・ファウスト・リゴレットの好みのアリアは内容や歌詞をほとんど暗記していた。ギャウロフやシュワルツコプフの歌声に首っ丈のようだった。

実は私も,耳からの強烈なオペラ好きで,毎週のNHK-FMオペラアワーを楽しみに聞いており,好きなアリアは歌詞を暗記し歌って,夢中になっていたのだ。それゆえ,自称「芸術愛好癖」をもって森岡さんに対抗し,研究においては偉大な先生であるにも係わらず,オペラに関する私自身の感想や批評を,臆せずばりばりと言い放った。今思うと不肖の極みだ。

 平成14・15・16年は森岡さんと奥様・ご家族の皆様にとって,闘病と苦難の日々だったことを思うと,私には語るべき言葉が出てこない。訃報に接し,私はしばらく信じられなかったし,本当は今も信じることができない。比類無き誠実さとあたたかさ・そしてなお鋭さを併せ持った希有な人柄がこの世にいなくなられたと思うと,語るべき言葉が出てこない。

生前,森岡さんはご家族に深い愛情を注いでおられた。きっと闘病のさ中,仏になって家族を守ろうと固く心に決められた瞬間を持たれたのに違いない。

森岡さん,みなを見守ってください。合掌。






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関篤子さんの死を悼む

五十嵐 久子

 関篤子さんが3月6日虚血性心不全のためご自宅で急逝されました。一人暮らしだったため、姪御さんに発見されました。亡くなる前日も姪御さんがお会いになっており、普段と変わらずお元気だったとのことでした。私が1年程前に偶然お会いした時にも元気だったので、関さんの訃報を聞いた時は本当にびっくりしました。

 関さんは、昭和16年1月に理学部に採用になり、会計、経理、共済等を担当されました。昭和48年2月に化学事務室に来られ昭和59年4月1日付で定年退職されるまで事務主任としてご活躍されました。化学教室に来られた当初は、会計の専門家として教室の会計帳簿を整備してくれたと聞いております。私は、昭和49年10月から関さんの下で働くことになりました。その頃の関さんは働き盛りでしたので非常に厳しい方でした。私のような田舎者を関さんはどんなにもどかしく思ったことでしょう。黒川さんが退職されてからは化学教室の事務全般を仕切り、化学教室の皆から厚い信頼をうけておりました。「先生それは出来ません。それは駄目です。」等と答えていた姿は、とても印象的でした。

 事務部に対しては、関さんが盾になってくださいましたので、下で働いていた私たちは安心して仕事をすることができました。当時理学部の中央事務に新しく配置換えで来た若い事務官等も関さんのところに初めて来た時は恐かったと後で話していました。それだけ自信をもって仕事をしていたのだと思います。

 関さんは、姉御肌で面倒見が良く、後輩の事務官等から親しまれておりました。お酒が強く賑やかなことが好きで化学共通のお花見、忘年会等では会が盛り上がるように気をつかってくださいましたので、いつも楽しい飲み会になりました。

 また、関さんは、記憶力が良く、退職して大分経つのに話の中に人の名前や仕事の内容等、すらすら出てくるのでとても感心しました。

 まだまだ、長生きして私たちに気合を入れてくれると思っておりましたのに、とても残念です。ご冥福をお祈りいたします。






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「久保田尚志先生への追慕」

  (財)サントリー生物有機科学研究所

  名誉所員 納谷洋子(久保田研3回卒業生)

真島利行先生の最終弟子、久保田尚志先生が化学研究の途を歩み出されたのは昭和7年のことである。久保田先生は「自らを真島教授の弟子と称えるのは不遜のような気がする」と述べられるほど、恩師を深く敬い慕ってこられた。その経緯は故人の米寿を記念して出版された著書、「素描」 に生き生きと語られている。いま彼岸に旅立たれ、94歳にして精魂込めて執筆された「日本の有機化学の開拓者真島利行」 の完成を再会の土産話しにされたことであろう。この業績は、久保田先生ご自身が達成感を満喫された大きな足跡の一つであると思う。化学の先達としての大いなる使命感が漲る労作であり、それは万人が認めるところであろう。化学史研究会会誌に4回にわたって掲載されたが、紙面の都合で元の原稿は可成り削除された。全てを収録し「真島利行伝」として配付したいという故人のご希望が叶うよう、関係各位のご配慮を切に願っている。

先生は、研究面ばかりでなく随所に先駆的思想を発露され、時代を先取りする痛烈な批評家でもあった。「素描」を読み返して、それぞれの文章を書かれた時代背景を考えるとき、改めて故人の思想と偉大さに敬服するばかりである。しかし、生来の慎み深い照れ性から「その他大勢でいることの幸せ」を信条とされ、公の活動にはやや消極的であった。

試薬、溶媒、機器設備など全く無いという敗戦直後から、苦味という生理活性を指標にして、サツマイモ、ハマジンチョウ、キハダ、センブリなどなど、植物苦味物質の研究遍歴を重ねられた。日本人の集団的独創性を尊重し、化学変換や分解反応などの困難な過程をへて化学ドラマを構築されたのである。   合掌

久保田尚志先生ご略歴

(旧)鹿児島七高教授の久保田温郎、一高女教諭久保田愛の長男として鹿児島市鷹師町にて出生(明治42年11月8日)。大竜小、鹿児島二中から七高。「研究者の生き方にあこがれ」東北大理学部へ、真島利行(文化勲章受賞者)の指導を仰ぐ。

東北大助手から、大阪大助教授、(財)日東理化学研究所研究部長、大阪市立大教授、同大理学部長、定年退職により近畿大教授、昭和62年同大退職。

平成16年1月1日未明没(94歳2ケ月)。

理博、大阪市大名誉教授、日本化学会、日本薬学会、日本農芸化学会など名誉会員。

甘薯黒斑病苦味成分の研究で日本化学会賞、東レ科学技術賞、民間薬として珍重されるゲンチアナなどの苦味物質の研究で、日本学士院賞。




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池田鎮彦(昭和35年)さんを偲んで

                               小村 寛(昭和 39年)

平成15年7月22日の朝、高張友夫(昭和35年)さんより電話があり、”池田鎮彦さん が急逝され、今日が通夜で明日は告別式(平塚市)である”と知らされました。同期 会への近況報告では、”思うように運動はまだできないまでも、悩まされていた腰痛 もよくなり、趣味の音楽や絵と、引退後の生活を楽しんでいます”とありましたの で、あまりにも突然の訃報に驚きました。プールで水泳をしているときに、心筋梗塞 に襲われ、その後の救急医療の努力にもかかわらずお亡くなりになったとうかがいま した。急な事でしたので、仲間との連絡も十分にとれず、とにかく、東北大学同期生 有志として生花一対を手配し、高張さんと二人で、通夜に駆けつけたのがついこのあ いだのような気がします。

池田鎮彦さんは藤瀬新一郎教授の研究室で卒業研究をされ、大日本塗料株式会社に入 社されました。その後蛍光体部門が分離され、三菱化学グループの一員として新たに 発足した化成オプトニクス株式会社に転籍されました。工場長などを歴任したのち、 技術者として中国へのプラント輸出に関連した仕事を希望され、西安や北京へと単身 赴任されました。池田さんのお父様は旧満州で仕事をされていて、ご兄弟も中国でお 生まれになった経緯もあり、中国の為にお役に立ちたいとの特別の思いがあったよう です。その後中国との合弁会社の設立に伴い、広州珠江光電新材料有限公司の総経理 (社長)として新規事業を軌道に乗せてから引退されました。文化、習慣等の違いに 起因する行き違いなど、いろんなご苦労もあったかと思いますが、通算約25年程の長 きに渡って中国と関わり、関係した中国の人々と厚い信頼関係を築き上げ、技術者と して叉企業人として、しっかりとした足跡を中国大陸に残されました。池田さんと は、私が病気で休学するまでの半年程、同じ藤瀬研究室でご一緒しました。池田さん は、週に1-2度ほど、6時頃には早めに実験を終え、クラリネットの練習に出かけてい ました。学生時代も寡黙な人でしたが、すでに大人の風格がにじみ出ていて、自然と 一目置いてしまうような人でした。中国大陸の人たちと信頼を積み上げながら、新 たな事業を立ち上げるには、まさに適役の人柄だったのではないかと思います。

池田さんに最後にお会いしたのは、平成11年の秋の恒例の同期会でした。木村弘 (昭和35年)さんのお世話で会津若松市での泊まり込みの会となりました。飲んで、 歌って、話して、翌朝には評判の会津若松の名酒を土産に買い込み、帰路につきまし た。池田さんは私の車に乗って秋の会津路をドライブをすることになり、途中で古い 旅籠のたたずまいが保存されている大内宿などに立ち寄りながら、会津西街道を走り 西那須野へ着く迄ご一緒しました。あの日は好天に恵まれました。 林の中を流れる 渓流と木漏れ日に映える紅葉の眺めは素晴らしく、日本の田舎と自然の風景に心を和 ませ、そして抜けるような青空と澄んだ空気を満喫しました。又いつの日か、もう一 度、紅葉の季節に会津若松で同期会をやりたいね、と池田さんと話した事を、今、鮮 明に思い出しました。

合掌

2004/07





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千葉公夫君を悼む

佐久間 泰彦 昭和32年学部卒(34年修士課程卒)

平成16年5月、千葉公夫君が、五年に亙る闘病生活の後、69歳の若さで亡くなり

ました。全職業人生を高等学校教育に捧げただけに、仙台南郊で行われた告別式には、大勢の参会者が引きも切らず、教職界の先輩・同僚・後輩の諸氏に加え、教え子代表による弔辞など、改めて彼の真摯な人柄を惜しむ盛大なものとなりました。

千葉君は、昭和30年、私達が三年になる時、教育学部委託学生として化学教室に入り、田中信行教授の無機化学講座にて机を並べる事となりました。彼と私は、仙台一高時代に親しかった事もあり、以来、公私にわたり心を許した付き合いとなりました。

当時の化学教室は、開幕頭書の分析実験を始めとして実験実験の連続。夕暮れ時、構内を通る女学生達を眺めながら、ああ、埋もれた青春・・・などと嘆いたものです。ある時、実験が旨く行かず苛々した私は、手許が狂って大量の水銀を床にこぼし、呆然自失して居りました。折りも折、部屋に戻ってきた千葉君は、一切私を咎める事無く、黙々と遅くまでかかって清拭してくれたのです。その姿は、私にとって百の説教・叱責にも優る教訓でした。爾来、私は仕事に行詰まって苛々した時は、何時もあの時の千葉君を思い出し、自らの戒めとして参りました。

千葉君は卒業と同時に、母校仙台一高で教鞭を取り、運動面でも得意のテニス部を率いて活躍しました。情熱一本槍で、やや世渡りに不器用な彼が頂戴した仇名は“ロックケーキ”。彼を知る友人達は皆、生徒達の巧まざる人物観察力にいたく感心したものです。

告別式場に飾られた遺影は、柔和そのもので、昔を知る私達にとっては一寸首を傾げたくなるような温顔でした。聞く所によると、いよいよ自分の寿命を悟った彼は、独り病院を抜け出し、遺影用の写真を撮りに行ったそうです。成る程、人間悟りを開くと、斯くも立派な風貌になるものか。我が友は、最期に至る時にも亦、私に教訓を与えて呉れました。

彼のご長男は、私と同名の泰彦君。私達が最も多忙だった中年期、お互いに仕事の悩み、子育ての悩みを語り合ったものです。告別式当日、堂々たる青年紳士となった泰彦君は、立派に喪主としての役割を果されました。千葉公夫君よ、以って瞑すべし。

安らかにお休み下さい。合掌




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敬弔森山弘明君

木羽敏泰

 お互いに90才を越える年齢になると訃報を受けるのに時間を距てての事が多い。森山君の場合も平成16年の年賀状が喪中につき欠礼という夫人からの御挨拶で知ったわけで、既にほぼ一年前15年1月10日に逝去されていた。それから電話して、当時の状況などを承って昔をしのんだわけである。できるだけ家族のみで、しめやかにと御本人の御意志も理解できるが12年(1937)卒業以来66年も深い交流を重ねて来たクラスメートにとっては、見のがしの三振をしたようで、人生のはかなさをまざまざと感じないではおれない。通知する級友も市川、佐々木の二人のみになった。

 森山君は旧制八高(名古屋)の出身で、丈高く,白皙痩身、温厚な人であった。下宿でなく、米ヶ袋に一戸を構え御母堂と女中さんで世話しておられた。戦前の富裕家族であった。卒研は野村博先生の有機化学講座につき、市川正君(後にチッソ)松本武二君(後に味の素)との3人であった。卒業後は当時の大日本染料KKに就職し、この会社が住友化学工業に発展していくのである。森山君は戦中、戦後を通じて、有機合成化学の研究に従事し、職場も大阪市の西北部の桜島線というJRの支線にそった、住友グループの敷地を出ることはなかった。要職を重ね多くの功績をあげた。われわれのクラス会には律儀に出席してくれたが、絶対に宿泊はしないということで、いつも日帰りであったことが印象に残る。退職後は彼のイニシャルを付したエッチ・エム・ビクター化学研究所を自宅に開設し、亡くなる寸前まで研究を指揮した。お互いに年齢には不足がない。充分によくやったと思う。御冥福を切に祈りつつ。





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堀野 博君を悼む

佐藤成一(昭和35年卒)

 級友の堀野博君が平成16年7月2日に逝去されたことを、仙台在住の荻野博君(元理学部長)からのEメールで知りました。以前から体調が本調子ではないということを聞いてはおりましたが、このように早く昇天されたことに驚いております。東北大学を定年退官されてこれから同級会などでゆっくりとお会いできると楽しみにしておりましたので大変残念でなりません。心からお悔やみ申し上げます。

 堀野君とは三神峯の教養部と片平丁の化学教室で一緒に学びました。卒業後は修士及び博士課程へ進み大学に残られたので、会社に就職した私との交流は手紙のやりとりが主でした。教養部時代の堀野君については、授業のある教室に移動する時には脇目もふらず、無駄話もせずに足早に歩いている姿が思い出されます。井上先生や山口先生が主催する化学部に入って化学の実験をしていました。高校時代から化学に興味を持たれ、大学では有機化学を勉強するのだという強い目的意識を持っていることに感心したことを覚えております。

 化学教室では講義に、実験に、卒論研究に熱心に取り組まれたのは勿論ですが、教室で行われる運動会や野球大会や遠足やダンスパーティーなどの準備にも、嫌な顔ひとつせず積極的に参加して黙々と誠実に対応していました。卒業後わかったことですが、堀野君は敬虔なクリスチャンで如何なる場合でも奉仕の精神で真面目に物事に当たられたのだと思います。

 博士課程を卒業後上智大学に勤務されましたが直ぐに東北大学に戻られて教養部の化学を担当されました。昭和52年当時、私は会社の研究所で油脂関係の基礎研究をしておりました。そこへ東北大学薬学部卒の新人女性が配属になりました。聞いてみると教養部時代に堀野先生から化学を習ったとのことでした。その女性は化学の基礎がしっかりしており、アシルアミノ酸利用研究で活躍しました。堀野君が化学関係の人材育成にも誠実に取り組まれている一端を窺い知りました。

 堀野君の研究が「金属錯体触媒を用いる有機合成」であり、数々の貴重な成果をあげられたということは亡くなられた後に始めて知りました。私は会社に入社して8年間、オキソ反応の研究の一環として触媒のコバルトカルボニルから誘導される有機金属錯体も取扱っておりましたので、早くに堀野君の研究内容がわかっておればサンプル提供など何か研究のお役に立てたのにと大変残念に思っております。

 会社の転勤で挨拶状を出すとその都度丁重な激励のお手紙を頂きました。転勤は色々なニーズや環境変化に対応して仕事のスパンが拡がるという面がありますが、一方で新しい仕事や自分の将来に対して不安になることも確かです。そんな時に堀野君から思い遣りのある激励の手紙を頂き大変勇気づけられました。またその手紙の文面から、比較的に変化の少ない大学での研究・教育活動の中で如何にして現状をより良く向上させるかを常に考えておられるのがわかりました。その精神は必ず後輩の先生方に引き継がれて行くと確信しております。心からご冥福をお祈り申し上げます。




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三好宗次君を悼む


三好宗次君の訃報は夫人の昌子さんから突然届いた。 5月の10日過ぎであった。彼女は三好君が昭和化学に勤務していた時、東京工大にいた私の所へ、文献をよくとりにきた。

 三好君は22年の卒である。無機化学講座に属した。卒業実験は吸着であった。私達のクラスは良くも悪しくも個性的だった。彼の運神は抜群で、野球、テニス、バレーボールなど、クラスでは一番であった。また、囲碁は早くから有段、マージャンは勤務した日東化学では一番強かった。私は彼とは気が合って、文学を語り、社交ダンスを共にした。

 彼は、学問に対して強い憧れを持ち続けた。田辺製薬にいた頃、有機合成の指導をしながら、学位を得た。ときおり、私を訪ねたときも、話題の大半は学問であった。もし彼が大学に残って学問を続けたならば、間違いなく相当な学者になっただろう。

 ご子息達は彼に似て、聡明である。告別式でご子息達にお会いできて、充実した気持ちになった。彼らは残された昌子さんを支えるだろう。

                         青野 茂行

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小幡先生を偲んで


 今年一月、小幡先生が、お亡くなりになったという連絡を受けたとき、暮れにお電話でお話をしたばかりでしたので、一瞬、信じ難い思いがしました。

 昭和三十九年、私が旧教養部化学科に就職したときには、すでに小幡先生は在職しておいででした。それから小幡先生が退官されるまでの、二十七年ほどのお付き合いでした。

 先生の御研究は、生物化学の領域のように承っていましたが、学生実験の担当も別のグループに属し、私は自分の仕事に手一杯で、先生のお仕事について、深くお教え頂くこともなく過ごしてしまったことを、今更のように残念に思います。

 このように、研究上のことでは、全く交渉がなかったのですが、時折、昼の休憩時間に一階上の柴田教授の研究室に、気晴らしにおいでになられることがありました。取り留めのない雑談でしたので、今では、どんなことを話されていたか、ほとんど覚えて居りませんが、若い頃にはラグビーの選手だったこと、音楽がお好きだったこと、また鉄道に関しては、蒸気機関車の型式、運行していた時代と路線など、その知識の多さにびっくりさせられたものです。

 今となっては、すべて遠い記憶として、朧気になった先生の輪郭ですが、『オーフラ・ハーノイ』のチェロが好きだと言われたり、テレビでみたチェロ奏者のマイスキーの顔が、キリストの顔のようだと言われたことが懐かしく思い出されます。マイスキーの風貌については、私自身先生の言われることが理解できるような気がしていたものですから、「ところで、キリストのお顔を、ご存知なの?」と、私がふと漏らしましたので、二人で吹き出してしまったことがありました。小幡先生は、どの名画に描かれたキリストを想像しておいでだったのだろうかと、あれこれ思いめぐらせて居ります。

 “なくて七癖”と言われるように、人は、それぞれ一癖も二癖もあるもので、それに違わず小幡先生にも、ときとして理解し難い程にユニークな面がありました。

 あの親しみ易い笑顔を思い浮かべながら、裏も表もない、正直で純粋そのものであったが故のことであったことに、お亡くなりになって、はや半年余りが過ぎてしまった今でも、私は、深く心を打たれる思いをいたしております。

角野雅恵




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