福村先生御退職特集



東北大学を退職して 福村裕史

福村裕史先生ご退職に寄せて 柴田 穣

  

東北大学を退職して

福村裕史

東北大学理学研究科の有機物理化学研究室に大阪大学工学研究科・増原研究室から着任したのは1998年10月1日である。当時の化学専攻の教授の方々には、とても暖かく迎えていただいた。特に専攻長だった平間先生は、助手のポストを他学科から一時的に借りてまで準備して下さった。吉藤先生には教育制度委員会で委員会運営の仕方を勉強させていただき、後に理学研究科の教育制度委員長を長く務める契機になった。宮仕先生、荻野先生、寺前先生、伊藤翼先生には、研究室運営など困ったときに色々アドバイスを頂いた。また山本先生からは、後に理学研究科全体の運営に関わる研究科長補佐に推薦いただいた。もちろん、物理化学系の三上先生、大野先生、藤村先生には、幾多の懇親会、とりわけ物理化学コロキウムの飲み会と温泉で大変お世話になった。さらに多元研の中西先生と伊藤攻先生、金研の菊地昌枝先生は物心両面で支えて下さった。これは最近になるが、生物化学の十川先生には、蛍光寿命マッピング装置を用いた研究に関与させていただいた。当時の化学専攻の先生方による篤い支援に深く深く感謝する次第である。
 現在、私は工学技術者を育てる仙台高等専門学校の校長をしていて、工学と理学の違いを日々考える毎日である。日本の場合には、工学も理学もシーズ探索という研究が多く、特に化学では成果が応用につながる可能性が高いので、その境界はあいまいに見える。しかし欧米では、工学は明確にニーズがあって、社会や企業の要請に応えるのが役割である。ひるがえって理学は、好奇心を原動力として、顧客からの要請なしに研究を進めることができる数少ない学問領域と思う。ただし、研究資金は社会から得ているので、社会の構成員の好奇心を代表しているという自覚が必要だと考えるようになった。東北大学の化学専攻の皆さんは、工学や理学という意識は無いかもしれないが、自分の研究がどちらよりか考えてみるのは研究の位置付けの参考になるのではないだろうか。これがあいまいで、都合の悪いときにどちらかに逃げるのは、あまり健全では無いように思う。
自分が化学専攻にどのように貢献したかを考えるとき、理学研究科長として東日本大震災からの復興に費やした時間は無視できない。東北大学で2回の大地震を体験し、2回とも化学棟から火災が発生したので、化学の実験室には免震対策が必要だと文科省や大学本部の関係者に力説し新棟建設にこぎつけた。地下鉄開通を見越して利便性を考え、学生の自由な討論の場を確保する空間を作るため、当時の全学科の教員の意見をできるだけ設計に取り入れたつもりである。新棟を見て「焼け太り」という人がいるかもしれないが、あの震災のため我々の研究はどれだけ阻害されたか、そのマイナス面を考慮すれば、決して「太って」などいないと思う。少なくとも私の研究グループは、組み立てから調整まで時間のかかる大型レーザー光学系やトンネル電子顕微鏡をプレハブ棟へ移動したり、再度、補強後の元の建物に戻したりと、数年分の研究中断に匹敵する損害をこうむった。このことは決して忘れてはならないと考えている。
 さて研究の方であるが、着任前に考えていたテーマは三つあった。ひとつはパルスレーザーによって発生するX線を使う時間分解測定であるが、これは高出力のフェムト秒レーザーが必要なので、大型の科研費が当たらないと実現できない。そこで、中型予算でも可能なものとして、当時、表面科学の分野で使われ始めていた常温大気圧下の走査型トンネル顕微鏡と手持ちの光検出器を組み合わせた光化学の研究を考えた。さらに最悪の場合、予算が全く付かなければ、全て手持ちの装置で可能な研究を始めるしかない。当時、阪大から移動可能だったのは、自分の科研費で購入したナノ秒レーザーと時間ゲート付きラマン分光器だったので、ナノ秒でも十分に新しい知見の得られそうな溶液の相変化ダイナミクスの研究を考えた。これら研究の黎明期について記憶に残っていることを記しておきたい。
 まず、畑中さんが半年後に新しい助手として着任し、運の良いことに科研費Aが採択されたので、フェムト秒レーザーを物質に集光して発生するX線について調べることになった。究極の目的は、ピコ秒程度のパルスX線によって、光励起状態の時間分解X線回折やX線吸収端測定をすることであったが、まずはどうやったら使えるX線が発生するのか、そこから調べなければならなかった。ターゲットして流せる水溶液にレーザーを集光するにあたり、どんな物質を溶かしましょうかと畑中さんが教授室に相談に来たとき、ともかく沢山溶かして濃度が稼げるものにしようということになった。私が博士課程の学生の時、塩化リチウム水溶液がガラス状になるほど高濃度になるのを経験していたので、直感的にアルカリ金属塩化物塩を思い浮かべた。重い金属ほど電子数が多いので、塩化セシウムで始めることに落ち着いてうまく行った。余談であるが、後にX線天文学の先生が研究室を訪れた時、レーザーで発生する連続X線スペクトルの載ったポスターを見て、これは宇宙で観測される熱制動輻射と同じですねと言われ、理学はつながった一つの分野だという想いが深まった。この研究を担った畑中さんは、その後、北大、東大を経て、台湾の中央研究院應用科學研究中心の研究員・教授に就任し、超短パルスレーザーを用いた研究分野で活躍している。なお本研究を最後に担った秀才の五月女さんも、現在、大阪大学基礎工学研究科・宮坂研でフェムト秒分光の研究で成果をあげている。ちなみにパルスX線を用いる分野は、日本ではシンクロトロン放射光を用いた研究のみが目だっているが、米国やドイツではレーザーを用いたX線できちんと時間分解回折の研究が行われていて、日本の光化学研究者が少ないのが残念である。
 次に走査型トンネル顕微鏡を用いた研究であるが、これは相当に手先が器用で注意深く、実験がうまくないと遂行できない。そこで大阪大学工学研究科の応用物理学科修士課程に合格していた雲林院さんに無理を言って、化学専攻の学生になってもらい、装置を組み立て調整してもらった。意外なことに、すぐにピレン誘導体のサブ分子レベルの吸着像などが常温大気圧下で見えた。これに気を良くして、単一分子分光学の先のサブ分子分光学をやろうなどと語っていたが、そこからの道は険しかった。雲林院さんは博士学位取得後にルーバンカトリック大学で博士研究員になり、そこでも才能が認められ、同大学の研究教授を経て北海道大学教授に就任した。金属ナノ粒子のプラズモンを応用したナノ領域の分光学がこれほど盛んになると、当時だれが想像したであろうか。用いる光の波長より小さい世界について、空間分解はできないというのが常識であった。その後、走査型トンネル顕微鏡を用いた研究は、金ナノ粒子合成の得意な堀本さん、ついで表面科学が専門のジェズニツカさんが助教として引き継いだ。現在、堀本さんは理研、ジェズニツカさんは芝浦工大で活躍している。
 資金が無くてもできる研究を最初に担ってくれたのは、当時、有機物理化学研究室の修士課程の高見澤さんであった。彼はスピン化学の研究をしていたが、博士課程に進学するときに研究テーマの変更に同意してくれた。二つのレーザーを同期させ、時間ゲートを操作して時間分解ラマン分光測定ができるように装置を組み上げたのは、彼の業績である。また相分離を誘起するために、水に吸収のある赤外線パルスをラマンシフターで作る必要があった。この部分は、後から助手として着任した英国人のホブレーさんが担当した。あと、ガウシアンを用いてラマンスペクトルの計算をしてくれた助手のザンペイソフさんの貢献も忘れてはならない。高見澤さんは、山梨大学で博士研究員を勤め、その後、首都大東京に移ったと聞いているが、消息が知れず心配している。ホブレーさんは、シンガポールのASTARという国立研究所に移った後、ブルネイの大学に移ったが、そこも辞めてフィリピンの自宅で研究をしているようである。当時、博士課程の学生だった粕谷さんは相分離溶液中での高分子重合の研究を行って学位取得後、多元研・栗原研で助教となり界面科学の研究で成果をあげている。最後に本研究を引継いだのは、後に助教になった梶本さんと、当時、博士課程学生の豊内さんで、現在、梶本さんは薬学研究科で、豊内さんはルーバンカトリック大学で活躍している。この研究分野は、パルスレーザー照射によって起こる相変化の速さが知りたいという個人的興味から始まっているが、研究として華々しくも無く、具体的な応用からもほど遠かったので、携わった皆さんには申し訳なく思っている。最近になって、細胞内での液液相分離が遺伝子の発現などに関与しているという報告もあるので、生命科学分野での展開に期待している。 最後になるが、准教授には独立した研究テーマを持っている方々を招き、自分も学びながら共同研究させていただいた。最初に招いたのは、京大出身でフルートの名手でもある西尾さんで、レーザーアブレーションによる物質合成、特にグラファイト・リボンの研究をめざしていたが、わずか3年で立命館大学の教授に就任して研究室を去った。その後、若くして癌で亡くなったのは本当に無念である。後から着任した生物物理専門、名大出身の柴田さんには、植物の光合成系のことを学ばせていただいた。また、もともと放射化学研究室の出身であった同級生の橋本修一さん(群馬高専、徳島大)とは、30年程度の長きにわたりゼオライトの光化学などで共同研究をさせていただいた。それから、同じ理論化学研究室出身の石川さん、白井さん、二又さんらとも研究上の情報交換があった。海外の研究者との共同研究も盛んに行ったが、特にポール・シェラー研究所、ハイデルベルグ大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、ルーバンカトリック大学、エコール・ノルマル・スーペリエール・キャシャン校、アムステルダム大学、ストラスブール大学、メルボルン大学、プラハ物理学研究所の先生方とは、招いたり招かりたりと深い研究交流があった。アジア光化学協会会長としてシンガポールで学会を成功させることができたのも、国内外の多くの光化学研究者の支援があったからである。
 総じて見ると、風呂敷を大きく広げすぎて、全ての面で突破できなかった感がある。震災も大きく影響したことは否定できない。パルスX線や走査型トンネル顕微鏡を使う研究では、化学反応につながる光励起状態や反応中間体の分子構造を直接に見るのが夢だった。相分離ダイナミクスの研究では、連続体で自由エネルギーが定義できるマクロな相の概念が、分子レベルの描像とナノ領域でどのようにつながっているのかに興味があった。すべて道半ばであるが、理学とはそうしたものであろう。ここには、有機物理化学研究室の教職員と学生の皆さんの名前を全て記すことはできなかったが、皆さんの多大な貢献が研究を前進させた。ここで改めて、一緒に夢を語り同じ研究の道を歩んでくれた皆さんに感謝したい。

2019年8月21日 記



福村裕史先生ご退職に寄せて

柴田 穣

福村裕史先生、東北大での長年にわたる研究、教育ならびに学部長としての活動、本当にお疲れさまでした。
 2011年8月からの4年8か月という短い期間ではありましたが、この間私は基本的に自由に研究させていただき、大変充実した時間を過ごさせてもらいました。また、福村先生の研究スタイル、研究室運営を間近で見て刺激を受けつつ、もし自分が指導的立場になったどのようにしようか、と妄想していた期間でもありました。福村先生は、日ごろから「次の時代の物理化学」ということを言われていて、これまでの学問の流れの延長線上にはないような新たな分野を切り開くことを夢見ておられたと思います。ともすれば、我々が目先の成果に目が行ってしまいがちな中、新しい分野を切り開きたい、という大風呂敷をぶれずに広げたまま続けている姿は、本当に刺激になりました。研究者であるからには何か分野を切り開かねばならない、というのは今後の宿題となるでしょう。
 それに加えて、福村先生の温かい人柄は印象に残っています。細かい気遣いを常に大切にされており、自分には真似はできないなあ、とよく感心させられました。例えば、子供が風邪をひいて職場に行けなくなる旨を連絡した際など、必ず温かい言葉を添えてメールを返信されました。細かいことですが、ホッとさせられることがよくありました。また、声を荒げる、ということも全くと言っていいほどありませんでした。もちろん、説教はあります。それは、粘り強く論理を尽くして説得する、というスタイルでした。あまりに長すぎるのはどうか、とも思いましたが…
 福村研のセミナーは、学生が主導すべき、という考えだったと思います。いつも学生や我々の議論を黙って聞いておられ、議論が出尽くしたと思われる頃合いを見計らって最後にご自分の意見を述べ始める、というのがほぼ毎回の光景でした。そこで、それまでには出なかった重要な論点、視点が提示され、場が締まったことがよくありました。さらにそこから、研究者としてのあるべき姿、我々の研究室の進むべき方向、などが語られるというパターンに進みます。こういったことを今振り返ってみると、福村先生が大学の研究室運営としての理想形を常に追われ、ぶれることがなかったなあ、と改めて感じます。特に私自身、福村先生が退職された後の1年、研究室をまとめるような立場となることで、改めて多くの学生を研究に向かわせることの大変さを感じ、福村先生の存在の大きさを感じた次第です。
 研究室の飲み会や毎年恒例の蔵王へのスキー旅行なども楽しい思い出です。飲み会では、常に豊富な話題で場を盛り上げるのですが、披露される知識の豊富さは、福村先生の好奇心の旺盛さ、勉強することへの真摯さを感じずにはおれませんでした。スキーでは、初心者の学生に付きっ切りで指導していたのを覚えております。「まず滑って体で覚えろ」という教え方ではなく、まずはどういう理屈でブレーキがかかるのか、などに始まる理論から教える、というスタイルだったように思います。根っからの教育者、指導者、研究者であったと感じた思い出です。
 まだまだこれからも、仙台高等専門学校の校長としてお忙しい日々を過ごされるかと思いますが、ご家族との時間も大切にしつつ健康には十分気をつけていただきたいと思います。そして、いつか我々が大きな研究分野を切り開くのを見ていただけるように、こちらも頑張りたいと思います。


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