十川先生御退職特集
退職文
十川 和博
東北大学を退職して早くも2年余りになります。在職期間の記憶も薄れがちで、この小文にも錯誤している点があるかもしれません。私は昭和62年の秋に生物有機化学講座の助教授として東京の癌研究所から赴任してきました。その頃は興味深い遺伝子を探し出して、その構造決定を行うという研究がまだ盛んな頃で、やや下火になっていたとはいえ有名雑誌にはたくさんのそのような論文が掲載されていました。当時のDNAの構造決定は体力のいる仕事で、現在の蛍光法はなく、ふんだんにラジオアイソトープを使っていました。私もその真っ只中に身を置き、癌研では心身をすり減らす生活をしていました。毎日朝10時ごろに実験を始め夜中の12時ごろまで、土日なしという研究生活でした。
赴任した当時の東北大学には、研究上非常に困ったことがあることが、着任してすぐにわかりました。DNAのシークエンシングに必須の放射性32Pと35Sが化学棟ではほとんど使えないということです。化学科はもちろん生物学科でも、医学部でも誰も配列決定を行っていない状況でした。それでしかたなく全学の施設であるラジオアイソトープセンターで、長い交渉のすえ少しの場所を分けてもらえ、やっと使えるということになったわけですが、そこには困った状況が待っていました。センターでは実験終了後、管理区域を退出時にハンドフットクロスモニターで放射能汚染がないことの確認が必要なのです。それは当然の作業で、どこのアイソトープを使う施設でも当然行われています。しかしセンターでは、モニターと出口の扉が連動していて、無汚染でないと管理区域から出ることできないしくみになっていました。
実験を開始したところ、場所がよくわからない手指?や服?の汚染のため、夜中にセンターから出られない学生が続出しました。この対応に私はほんとうに困り果てました。センターに行きこちらの実験の詳細を説明し、なんとか無事でられるように説得を試みましたが、施設の担当の職員さんは実験を理解できず官僚的対応に終始されました。なにせ汚染を起こしたこちらが悪いという正義の論理でした。しかし長さ40センチ、厚さ0.2ミリのアクリルアミドゲルを長時間電気泳動後、固定し、乾燥し、オートラジオグラフィーをとることは、当時のセンターでの実験装置を使って、常識的な時間内に無汚染で実験を終えることは困難なことでした。センターの職員さんに非常に低レベルの汚染なので、何とか学生の退出の許可を依願しましたが、職員さんは汚染するほうが悪いと、けんもほろろの対応でした。あるとき医学系の実験室からは、モニターと連動していない出口があることを見つけ、そこから出るようにしましたが、職員さんに見つかりお叱りを受けました。
その頃生化学の雑誌に、科学行政にも携わっておられた放射線物質のエキスパートの先生が“1 mCiの32Pならいつでも飲んでみせる”と書かれた大胆な記事があり、それを読んでいて強気だった私にも問題がありましたが、フィルムバッチでは汚染が検出されず、手などについた高々バックの数倍の汚染で、あそこまで罵倒されるほどのことかと今でも思っています。シークエンシング競争ではもう勝てない、と当時思ったことを思い出します。この困った問題は、その後放射化学の先生のご努力によって化学棟での32Pの使用枠の拡大が認められ、最終的に蛍光による塩基配列決定法の発達のよって過去の話になりました。しかしいまでも当時の職員さんの顔を鮮明に思い出します。このトラブルでよかったことは、当時の学生が心折れることなく、メンタルにタフになったことぐらいでしょうか。後年、私はセンターの専門委員に指名され、会議のため訪れたセンターで、偶々出会った当時の職員さんが笑顔で近づいてこられたのには本当に驚きました。
このように東北大学での研究生活は始まったわけですが、その後も、これに匹敵するさまざまな悪い出来事、よい出来事が長い在職中につぎつぎと起こり、非常に興奮したり落胆したりしました。これらを乗り越え、無事定年を迎えることができましたのは、私の周りで支えてくれた優秀なスタッフの方々、研究熱心な学生さん、そして何よりも化学教室の暖かい有形無形のご援助のおかげと思っています。心より感謝申し上げ、化学教室の益々のご発展をお祈りし、この小文を終わりたいと思います。