退職にあたって −東北大学での37年−
私は2019年3月31日をもって,東北大学での教員としての28年を終えて退職しました。去る3月8日には,最終講義「超高速分子ダイナミクスが誘う世界 〜理論化学と歩んだ45年〜」で講演する機会をいただきました。ご多忙中にもかかわらず時間を割いていただいた参加者各位、ならびに最終講義をお世話いただいた化学教室懇話会の役員の皆様に御礼申し上げます。また,大学院理学研究科の広報・アウトリーチ支援室には,最終講義の様子を写真を交えてまとめていただきました(http://www.sci.tohoku.ac.jp/mediaoffice/20190328-10155.html)。改めて,感謝申し上げます。
私は東北大学理学部化学科に1972年に入学しました。大学授業料が年間12,000円から36,000円に値上がりした年です。前年度から学費値上げ反対運動が東北大学でも起こり,入学時は大量留年問題などのため学内は騒然としていました。何となく落ち着かないなかで当時の教養部での勉学が始まりましたが,H. Eyringの教科書“Quantum Chemistry”を使った尼子義人先生の化学Aの授業などに,難解であっても真理の一端に触れる興奮を覚えました。今から考えると,そのときには理解できないことが多かったわけですが,パズルのピースがはまっていくように,疑問は長い年月の間に少しずつ解けていきました。いつになっても新しいことを学ぶのは容易ではありませんが,少しでも何か自分の身になることを積み上げれば,いろんな局面で大きな力になると感じています。
私は化学科,化学専攻で9年間学生時代を過ごしました。学部4年生からは中島威教授が主宰する有機物理化学講座でお世話になりました。学生時代の研究テーマは「電子励起分子の無輻射過程の理論的研究」で,分子の電子励起状態のエネルギーが振動エネルギーに変換していく速度の計算でした。当時の理論化学は,主に分子の構造や遷移状態を対象にしており,反応の時間スケールを第一原理的に扱うことはまだまだ夢のような話でした。私たちのアプローチも,分子の多自由度の振動をすべて調和振動子で近似するという今では少し荒っぽい方法でした。研究室では,助手時代の藤村勇一先生に量子力学や反応ダイナミクスに関してその基礎から教えていただきました。輪講や論文紹介のセミナーでは,先輩,後輩入り交じって時間を忘れて議論したことが懐かしく思い出されます。
1981年に化学専攻で学位を取得した後は,アリゾナ州立大学の博士研究員,山形大学工学部助手を経て,1991年東北大学教養部に助教授として着任しました。教養部ではすでにその改革案が議論されており,結局2年後の1993年には教養部が廃止され,私を含め化学系の教員の多くは理学部に分属することになりました。私は阿部武弘教授らとともに、新設された基礎物理化学講座の一員となりました。この間は,教養部教育から全学教育にどのようにソフトランディングさせるかが大きな問題でした。ほとんどの時間をそのために費やしましたが,化学系以外の教員とも議論を進めることができて,貴重な経験になりました。現在の自然科学総合実験も、その中で生まれた分野横断的な視点が基盤となった大きな成果だと思います。
1995年には大学院重点化を機に藤村勇一教授のもと数理化学研究室が新設され,私も助教授としてその一員となり,量子反応動力学や反応の光制御を対象とした研究をグループ全体で推進する機会を得ることになりました。アメリカでの博士研究員の時代に,任意のポテンシャルをもつ分子振動に対する時間依存シュレーディンガー方程式を数値的に解く手法を習得し,その手法を1980年代後半からA.H. Zewailが精力的に進めていたフェムト秒分光実験の解析に適用していた時期でした。ちょうど次のステップを考えていた頃で,新しく立ち上がった研究室の自由な雰囲気の中で,高強度レーザー光と分子との相互作用に関心を移しました。具体的には,強い振動電場によって駆動される電子のダイナミクスや化学結合の組み換え(解離や反応)に対する実時間動力学法を開発し,様々な分子を対象にシミュレーションを行ってきました。多電子の相関を取り込んだ多配置時間依存ハートリー・フォック法を世界に先駆けて開発し,トンネルイオン化に及ぼす電子相関の重要性を明らかにするなどの成果を上げてきました。1つ1つの成果は,問題を粘り強く解決していった学生たちの努力の賜で,見通しの立たない課題にも挑戦してくれた学生たちに感謝せずにはいられません。分子の動きを時間軸で理解する化学反応動力学シミュレーションは,この40年にめざましい発展を遂げました。現在では化学の様々な領域で用いられており,実験と理論が融合したさらなる展開が「強レーザー場化学」「分子マシン」「DNA損傷イメージング」など多くの分野で期待されています。
振り返りますと,化学教室在籍中には,楽しいこと,大変だったこといろいろありました。研究室では,毎年,春の花見,秋の芋煮会に加えて,東北の各地を1泊で訪れました。宿泊した宿では,私も深夜まで歓談の輪に加わっていたこともありました。散策した乳頭温泉郷や三陸海岸などの景色が折に触れ思い出されます。また,長い間には,今でも冷や汗がでることもありました。別棟の一室に置いてあった何十台ものワークステーションに配電盤の接触不良で200 Vで電気が流れてしまい,電源が加熱して部屋中に煙が充満するという事態になったこともありました。深夜でしたからそのままでは火事になっていたはずですが,幸いにも,残っていた学生が異変に気づき事なきを得ました。一つ間違えば大変なことになっていたと思うと,その学生には感謝の気持ちで一杯です。
他にも忘れることができない出来事が多々ありました。2011年3月11日の東日本大震災では,化学専攻の建物も大きな被害を受け,復旧まで長い年月がかかりました。ただ,あの大きな地震にもかかわらず,化学棟での人的被害がなかったことは奇跡的とも言えるほどでした。これは,1978年6月12日の宮城県沖地震の経験が生かされ,薬品の管理から避難まで安全とは何かを突き詰めた対策がとられていたからであり,化学教室の先達の知恵に助けられた思いです。私はその年の日本化学会東北支部の支部長を務めており,理科実験室が被災した東北地方の小中高校に実験器具を提供する支援活動などに関わりました。これは理科教育の現場を知る貴重な機会となり,多くの学校の先生方と交流することができました。教員となって東北地方の理科教育を支えている化学教室の卒業生も多く,化学同窓会のネットワークの広がりを認識し,その活躍を誇らしく思いました。また,化学同窓会の幹事長としての活動や化学教室創立百周年記念事業への参画を通して,同窓会の現在に至る発展の歴史を身近に感じるようになりました。
私は,学生,教員として,合わせて37年間化学教室に在籍しました。教養部廃止,大学院重点化,法人化など大学が変革の過渡期にある中,1995年からは数理化学研究室に所属し,藤村勇一先生のもと,自分たちの独自のアイデアに沿って研究を進める幸運を得ました。2006年からは,数理化学研究室の教授として,大槻幸義准教授ら多くの教職員・学生に支えられ,教育・研究に従事することができました。その間化学教室ならびに化学同窓会員の皆様には,ひとかたならぬご厚情を賜り,誠にありがとうございました。今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願いするとともに,化学教室の皆様の益々のご活躍と化学同窓会のご発展をお祈り申し上げます。
河野裕彦先生のご退職に寄せて
河野先生ご退職おめでとうございます。私が河野先生と初めてお会いしたのは、今から23年も前のことになります。当時私はレーザーを用いた物質制御に関心を持っており、河野先生にご指導を仰ぎ来仙いたしました。それから博士課程、ポスドクの間にご指導、ご鞭撻を賜りました。この場をお借りしまして、深く感謝を申し上げたいと思います。また、河野先生だけでなく、藤村先生、大槻先生をはじめとした数理化学研究室の方々にも心より感謝申し上げたいと思います。
さて、初めに河野先生に驚いたのは、「体力」です。いつも夜は11時過ぎまで研究室にいらっしゃいましたし、土日もいらっしゃっておりました。特に今でも良く覚えているのが、明け方3時頃に「あの計算どうかな」と研究室にお電話を頂いたことです。その時間までいた自分も自分ですが、よくお疲れにならないなと感心しておりました。
次に感服申し上げたのは、やはり先生の「問題解決能力」(私が申し上げるのも失礼ですが)です。難問について粘り強く取り組み「河田君わかった!」とおっしゃったときは、大体の問題が解決しておりました。この点は本当に脱帽です。また、研究内容を論文にする際には、ストーリーをきちんと組み立てるだけでなく、細部の詰めもしっかりされておりました。私は詰めが甘かったため、河野先生のご示唆には大変救われておりました。このような河野先生の研究スタイルは、現在の自分の仕事への取組みに大きな影響を与えております。現在取り組んでいる課題は難問が多いのですが、何とか解決していけているのも、この時の河野先生のご指導があったからだと考えております。
このように、河野先生は、類まれな「体力」と「知力」で「本当に好きなこと」をされていて、まさに「研究者」と定義される方ではありましたが、同時にとても親しみやすく、またいろいろなお話をしてくださいました。疲れたときなども河野先生と議論し、河野先生の笑顔を見るとやる気が復活したものです。河野先生って憎めないんですよね(笑)。
以上、駄文ではございますが、数理化学研究室における河野先生との思い出を振り返らせていただきました。最後に、これからの河野先生の益々のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。
河野裕彦先生の御退職に寄せて
河野先生、御退職おめでとうございます。私は先生が数理化学研究室の教授になられて最初に博士の学位を取得した教え子です。博士研究員として1年半を東京大学で過ごした後に助教として採用して頂き、御退職を迎えられるまで大変お世話になりました。学生とスタッフ、双方の立場で長くご指導頂いた者として、僭越ながら先生のお人柄などについて記させて頂きます。
私は4年生に進級してから先生が教授に昇任されるまで、先生と同じ部屋で毎日を過ごしました。先生は学生を細かく管理・教育されることはなく、私も自由な環境で試行錯誤しながら研究に取り組みました。知識不足のために随分回り道をしましたが、それは学生の主体性を育む先生の方針ゆえであり、未熟で尖っていたけれどやる気だけは溢れていた私の性分を見抜いておられたのだろうとも思います。先生は決して学生を放置するわけではなく、求められればどんなに忙しいときでも必ず議論に応じて下さり、折に触れて研究の方向性を示して下さいました。また、学位審査や学会で使う発表スライドをチェックして頂く際には、文章表現のみでなく図の配色に至るまで非常に緻密なご指摘を頂きました。最初は「何でこんなどうでも良いことまで気にするんだ」と内心イライラしましたが、徐々に自分の研究を他者に分かり易くアピールすることの重要性に気付かされたのです。
先生は他者の前で学生を称賛することはありませんでしたが、たまに会話や議論の中でサラッと褒めて下さることがあり、嬉しく感じました。先生は学生を叱咤することも殆どありませんでしたが、不真面目な者やトラブルを起こした者をこっそり呼び出してお灸を据えることはありました。私も2回だけきつく叱られましたが、その直後には普段通りに接して下さった優しさに救われました。学生と適度な距離感を保ちながら上手く導かれる手腕に尊敬の念を抱きつつ、私は先生に対して良い意味で「掴み所の無い人だなあ」と感じていました。
やがて助教として戻り、研究室運営をお手伝いする中で、先生は「掴み所が無い」のではなく「卓越したバランス感覚の持ち主」なのだと知りました。万事に対してニュートラルに構えることで、どんな問題でも柔軟かつ変幻自在に対応して巧みに解決してしまう、そんな光景を幾度となく見てきました。その能力は研究以外にも発揮されるので、あちこちから仕事が舞い込んで先生は常に多忙でしたが、それゆえにとても人望が厚く、いつも人の輪(和)の中心におられたと思います。日本化学会東北支部の2011年度支部長や第11回分子科学討論会の実行委員長などの重責を務められたことも、先生が周囲から絶大な信頼を得ていた証でしょう。お酒の席では関西人らしく場を盛り上げ、一緒に呑んでいると誰もが愉快な時間を過ごせる、これも先生が人心を掴む所以です。
先生の御退職が近付いた頃、学内外の方々にその事実を伝えると、誰もが「まだ辞めないで欲しい」と寂しそうな顔。これほどまでに退職を惜しまれた人は少ないのではないでしょうか。化学専攻のある教員の方に「私もまだ続けて欲しいと思っているんです」と話したら、「お前は甘えているだけだろう」と耳の痛い一言が。先生の御退職が、私にとっては「独り立ち」の機会になるのかもしれません。長い間、本当にありがとうございました。退職されてもなお、お忙しい日々が続いているようですが、くれぐれもご自愛下さい。先生がゆっくりと研究を楽しめる日が早く訪れることを心から祈っております。