追悼 伊東椒先生



追悼 伊東 椒 先生 東海林 義和

伊東先生との出会い 佐藤 忠久

伊東椒先生のお人柄 中村 彰



追悼 伊東 椒 先生

    

伊東先生ご逝去の知らせを受けた時は、あまりの突然のことで信じられない気持ちでした。毎年春秋2回来日され数か月間日本各地を訪問され、年末年始には詳しい近況お知らせのメールを戴いていたのが1年ほど途絶えてはいましたが、本格的登山家でご高齢になってからも大きな荷物を背負って日本中を旅される先生の精悍なお姿が目に焼き付いている私には、それが永遠に続くように感じられていました。
 私は伊東先生が教授になられた昭和40年に学部3年生で有機機器分析講義を受け、最初の講義でいきなり「π-π*という言葉を聞いたことがあるか」と言われたのが印象的で、Woodward教授のクロロフィルa全合成チームで活躍された新進気鋭の先生に惹かれ研究室を希望しました。学部や院生の頃にはSOCS(化学教室や薬学部、非水研・現多元研の若手研究者セミナー)や天然物談話会・若手の会の合宿セミナー等で他大学の先生方や研究者の方々多数と交流する機会を得て大きな刺激を受けました。特に、1970年に第1回「非ベンゼン系芳香族化学国際会議」(ISNA、現・新芳香族化学)が仙台で開催された時には、会議への参加を希望した私に先生はPress担当という役割を下さり、すべての討論会、Reception、Excursion等に参加でき多くの国際的に著名な化学者に接することができました。先生から与えられた役割には上の空でしたが「化学と工業」誌(第23巻12号)に「ISNAこぼれ話」として出稿し掲載されました。100MHzのNMRが化学教室にいち早く導入されたのも先生のお力が大きかったと伺っています。研究室でのトリテルペン類等のMe基のケミカルシフトのアサインメントの議論や中西香爾先生とギンコライドのデカップリングによってインテグレーション値が増加するプロトンがあることについて夜遅くNMR室で議論するのを聞いたりした(これが核オーバーハウザー効果の立体構造決定への初適用となった)こと等が強く印象に残っています。環状付加反応のメカニズムが議論になっていた頃、米国出張から帰った先生がWoodward教授の未発表の原稿を見せて下さった時のことも忘れられません。Woodward-Hoffmann Rules(軌道対称性の保存:伊東椒・遠藤勝也翻訳)に出会った瞬間でした。M.J.S.Dewarや野副先生が7員環状キノン(p-トロポキノン)の構造を提案し伊東先生はじめ多くの方が合成を試みてできていなかったことを知り、その合成を希望し前駆体の5-OHトロポロンのサンプルを少量戴き、光増感酸化反応で合成できることを確かめましたが、単離するとすぐ酸化分解し、きれいな淡黄色結晶を先生に見せることができないでいました。熱力学的に不安定な化合物と考えて低温室で精製し低温保管しても不安定でしたが、後に、別法でより簡単に合成でき常温で安定に存在することを確認しました。
 企業に就職してからは、水銀農薬に代わる新規無公害水稲いもち病防除剤(世界市場1位)の基幹原料としてのマロン酸ジイソプロピルの新規工業的製法の開発や新規有機モリブデン化合物(省エネルギー自動車エンジン油添加剤世界市場1位)の開発等ができましたが、研究過程で先生に基礎的な相談をし研究所で特別講演をして戴いたことも忘れられません。企業では食品分野の研究開発も担当し、退職後も農林水産省プロジェクト等で健康寿命延伸の機能性食品、特に、大麦の水溶性食物繊維(主成分β-グルカン)摂取による健康増進等に取組んでおり、卒寿のお祝い会等でその一端を紹介させて戴きましたが、先生は長年便秘に苦しんでおられたようですのでもっと大麦を食べて戴くようにお勧めすべきだったと悔やまれます。
 伊東研在籍中は、全国的に大学紛争が広がった時期で東北大学も青葉山移転問題等で大学紛争が激しくなり、理学部でも生物学教室が一部学生に封鎖されたりしました。化学教室の大学院生会は教室封鎖するような学生運動には反対で、大学のあるべき姿を大学当局と話し合っていく中で、私は理学研究科大学院生協議会議長(その後、全学大学院生協議会議長)に推され、理学部五者連絡協議会(教授会、助手会、教職員組合、学生自治会、大学院生協議会)で教授会代表の伊東先生と対面することもありました。このような協議の中で学内問題解決のルールづくりができていったように思います。研究室に戻れば何事もなかったように研究の話で接して下さり頭の下がる思いでした。先生はその後理学部長にもなられて大学運営にご尽力されましたが、研究だけではなく大学経営でも明確な理念を持ちながら多様な意見に耳を傾ける包容的な態度はどうしてとれるのかいつも関心を持っていました。折々に先生に伺ったお話から千葉薬専や海軍医学校でのご経験、カナダへのポスドクでの留学、関係した多くの先生方との交流など多様なご経験から自然に体得されていたように感じています。
 個人的には、先生に仲人をお願いし大学院生で結婚、在学中に子供も生まれ何度もお宅にお邪魔して奥様はじめご家族の皆様にも大変お世話になりました。
 2002年勲二等瑞宝章受章の折には、成田仙一・廣枝夫妻と共に、家内と息子も同席させてもらって帝国ホテルで懇談、思い出話に花を咲かせながら、Woodward教授が受章した時と同様に帝国ホテルから皇居に出発することになるとお聞きしたのも懐かしく思い出されます。
 伊東研同窓会は3回生の私が番号をつけて名簿を作った頃は40名ほどでしたが、東北大ご退官時の伊東研同窓会記念誌「ともがら」には182名の名簿が記載されており、徳島文理大では先生の「薬品化学講座」で104名程、その他「ゼミ生」「医療薬学講座」(大講座制)等での教え子も多数おられたと伺っています。先生の人柄に触れて巣立っていった方は数えきれないと思います。伊東先生というより多くの方が椒さんShoさんと言って親しく語り掛けることができる先生でした。
伊東研ホームページ(http://itoken.fan-site.net/1215/index.html 群馬大学日置英彰氏管理)には同窓会写真と共に伊東先生のカナダ通信17報、伊東写真館74編、号外2編(各編紹介文と写真が10〜30枚ほど)、掲示板にも門下生との交信が多分500件ほどが掲載されていると思います。改めて開いてみると、沢山の山や旅行の写真一つひとつに詳しい解説、旅の印象等が記載されています。私は山の写真に特に魅せられますが、カナダ留学中に処女峰に登頂された先生の山に対する想いが感じられます。これからも機会あるごとに先生の写真や言葉に想いを馳せ糧にしていきたいと思います。
 私の机の前には、嶋アユリカさん(徳島文理大学卒業生)が書いて下さった先生の似顔絵とSho Ito のサインが鮮やかな藍染布(写真、有機合成化学協会特別賞受賞お祝い同窓会記念)、食卓には卒寿記念写真が飾っており、結婚祝いのナイフとフォークセットや海外ご出張帰りに戴いた趣のある栓抜きとコルクスクリュー等いつも家内と思い出話をしながら使わせて戴いています。
 先生と一子奥様のご恩に感謝し、お子様潔様隆様お孫様皆々様のご多幸をお祈りして追悼の言葉と致します。
 伊東椒先生、ありがとうございました。合掌

東海林義和(昭和42年学部卒業)
(一般社団法人健康長寿実現推進機構理事長)

(写真)

伊東先生肖像画



伊東先生との出会い

佐藤忠久

人生を振り返ると、自分の生き方に影響を与えてくれた大切な出会いがいくつかあります。伊東先生との出会いはその中の一つで、私にとって特別なものでした。
 1970年当時理学部化学系の学生は四年次から研究室配属になりました。配属は基本的に本人の希望優先で学生が話し合って決めるというシステムでした。私は有機化学系の研究室に進もうと思っていたのですが、当時有機化学系の研究室は四つありましたので、その中の一つに決めなければなりません。何となく選ぶというのは嫌で、研究室の研究内容を三年生の知識レベルを駆使して調べ、その中で伊東先生の研究室の研究課題の一つに興味を持ちました。それは一重項酸素の反応性に関する研究でした。先生にとってはそれが当時一番力を入れていた研究課題ではなかったようですが、私にとってはその研究課題が魅力的なものであり伊東研を選択した理由でした。
 伊東研に配属になって最初に取り組んだ課題、すなわち卒論はその一重項酸素反応に関する研究でした。先生の学生に対する研究指導は、決して細かな指示は出さず、本人に考えさせるというものでした。院生に対してなら当たり前かもしれませんが、文献の読み方もまだよく知らない未熟な四年生に対してもそうでした。私は先生がどのような教育方針をお持ちなのかを知った上で研究室を選んだわけではなかったので、最初は戸惑った記憶があります。しかし、そのような先生の教育方針下で指導を受けるうちに、つくづく伊東研を選んで良かったと思ったものです。先生のご指導のおかげで、自分で考えて取り組む研究の面白さを知りました。
 学生時代は、当時の風潮もあって余り真面目に勉強をしなかったので、大学院に行けるようなレベルではなかったのですが、伊東先生に出会ったことで大学院に進んで研究を続けようと思うようになりました。それから勉強し、少し足踏みをしましたが結局博士課程まで進み、研究を仕事として生きていくことにしました。そして米国でのポスドクも経験させていただきました。それは子供の時から仙台で育ち、外の世界を知らなかった井の中の蛙の私にとって、自分の殻を打ち破る非常に大きな出来事でした。おそらく伊東研に進まなかったら研究者の人生を歩んでいなかったと思います。
 当時の学生は自己主張が強く、先生という権威が言うことだから従う、ということをよしとしない時代でした。私もそういう考えの学生だったと思います。おそらく先生にとっては、私は生意気な学生の一人だったと思います。今思うと、先生は学生の気質を見抜くのがうまく、本人に考えさせるという基本は変えませんが、具体的対応は各自の気質に合わせた絶妙なものがありました。私はいくら反抗しても頭ごなしに怒られた記憶はありません。先生にいろいろ反抗しても結局は先生の手のひらの上だったのかもしれません。
 生きていく上で重要なことは、これだけは絶対譲れないという原則性とここまでは譲ってもよいという柔軟性のバランスをうまくとることだと私は思っていますが、それは簡単なことではありません。しかし先生は極めて自然にそれが出来ているように思えました。おそらく先生は山男でしたのでその経験の中でそれを培われたのではないでしょうか。私は伊東研を離れてからこれまで、どう対応すれば良いか迷うことに遭遇した時は伊東先生を思いだし、先生だったらどうしただろうとよく考えました。そして、先生はおそらくこうしたに違いないと想像して判断の根拠にしていたように思います。
 先生に褒められたことは余りなかったのですが、鮮明に記憶に残っている褒められたことが一つあります。それは研究に関することではなく、先生の趣味の一つであった写真に関することです。会社時代に、学会発表のために英国出張した帰りに先生とスイスのチューリッヒ空港で落ち合い、ツェルマットに連れて行ってもらったことがあります。阪大の村田先生もご一緒でした。その時私は中判カメラ持っていき、三脚を使ってマッターホルンをバックにした3人の写真を撮りました。その時、「パンフォーカス」という撮影方法を試してみました。それはアップの人物と遠景のマッターホルンのどちらにもピントを合わせる手法です。大して難しい撮影方法ではありませんが、いろいろな条件が揃わなければ成功しない撮影手法です。その手法で撮った写真をプリントして送ったところ、「このようにマッターホルンをバックにしてアップの人物と山の両方にピントが合っている写真は見たことがない。すごく良い写真だ」というお褒めのお電話をいただきました。先生が写真の狙いを見事に見抜いてくれたことと、滅多に褒めない先生に褒められたこともあって、非常に嬉しかったことを覚えています。
 2011年10月の東京での米寿のお祝い会で、ビデオ撮影・編集を担当しました。ファインダー越しの先生は眼光鋭く、ご挨拶のお言葉も明快で、とても88歳(数え年)とは思えませんでした。2014年10月の秋保温泉での卒寿のお祝い(伊東研50周年同窓会)にてお会いした時も大変お元気でしたので、まだまだ長生きされるものと思っておりました。もうお会いできないのかと思うと寂しくてなりません。
 伊東先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



伊東椒先生のお人柄

中村 彰 (博士昭56)

裏と表を使い分ける言葉や術を持ち合わせず、淡白、スッキリ、ハイカラ好み、パイプタバコを燻らせるダンディー派でもあった。センチメンタルなことは性に合わないのではなく、十分すぎる感受性は人一倍。然し、「情に流されること」はご本人の哲学にそぐわない。
 そんな伊東椒先生は、仙台での学生時代、奥様となる一子さんとペアを組み、社交ダンスの大会で優勝された。その話を切り出すと、「簡単に優勝できるものは、それ以上固執べき対象となる理由はない。」とのこと。以降、ダンスに拘泥されることはなかった。
 定期的に開催される全員参加型の研究相談会では、学生の提案に多少の理があると判断されると、「やってみろよ。やればいいじゃないか。」を頻発された。その研究相談会では、「要領を得ない説明、各種のデータの読み間違え、好ましくない結果への不完全な分析、等々」に出くわすと、「鋭い指摘」が随所に飛び出し、時として、最初の相談会の機会となった新参学生には、男女を問わず、「冷や汗の出る存在」でもあった。他方、「経験」を積んだ古参学生の中には、「逆襲」を試みる猛者も居り、時に、「論争」にまで発展するが、結構愉しく、収まるべきところに「収斂」するのが常であった。
 大正13年12月15日、東京日本橋小舟町で家業の薬種屋の長男として生まれた先生は、幼少時は、神奈川県大磯の別邸で静養を繰り返したと伺っている。家業の後継者として千葉薬専に進み、敗戦色濃い昭和19年9月に薬専を繰り上げ卒業する。その3ヶ月前から海軍薬剤生徒に組み入れられ、卒後、直ちに海軍薬剤見習尉官となり、昭和20年1月には海軍薬剤少尉に任官。同年8月15日の終戦後も、終戦実務処理に従事。正式に軍歴を解かれるのは11月であった。その後、静岡県南伊豆の国立湊病院(元海軍病院)の事務嘱託となるも、早々に辞し、薬専時代の先立である赤堀四郎に倣い、東北大学に進み、野副鉄男先生の教えを受けられることになる。
 その後の輝かしい伊東先生の公的な軌跡は、私には正確に記す資格も能力もないことは承知している。そこで、私が還暦を過ぎてお付き合いを賜った折々の話題をご披露申し上げ、多面的に伝わる先生のお人柄を少しでも補間できれば、幸甚なことと考える。
 昭和22年生まれの私は、伊東先生の化学の業績を補強し推進発展させるような寄与とは無縁であったと自認している。京都大学大学院工学研究科合成化学専攻の博士課程を2年で退学し、伊東先生の研究室に博士課程1年生となることができた。編入試験に先立って、面識のない先生に連絡をとり、御茶ノ水の日本化学会の2階の談話室で、「中村君かい?」で始まる個人面談を受けた。昭和51年1月であった。私は「珪酸塩化学、有機ケイ素化学とケイ素に関する化学に親しんできたが、本物の有機化学を勉強したくなった。」と云う主旨の「理屈」を精一杯伝えた積もりだったが、先生は「キチンと見抜いておられた」と理解している。「(どんな理由かはさておき)君がやりたいと判断したなら、やればいいじゃないか。機会は提供するよ。」と云うのが、伊東先生の「心情」であった筈である。工業化学専攻科の野崎一先生の有機合成の授業が印象に残っていたことが、領域変更を決断させたのかも知れない。体系的な有機化学の学習経験もないままに、編入試験に臨んだ。有機化学の口頭試問の担当は櫻井英樹先生であった。その数年前に、京都でお世話になっていた研究室から、櫻井先生が東北大に転出されていた。
 京都の研究室の別のグループでは、不斉還元とクロスカップリングに取り組んでいた。出発物質や生成物質は、「構造既知」の化合物を専ら対象としており、元素分析、分子量確認(MS)、旋光光度計(不斉還元グループ)に加え、UV、IR、NMRの各スペプトルは、謂わば、構造確認のための指紋認証的な道具であった。
 ところが、仙台では、合成反応の可否を、反応混合物を分離精製して、「三種の神器」のスペクトルを必死に解読し、未知や既知の生成物の構造を決めることが日常作業であり、私には新鮮で未経験の世界だった。学部学生も、ドライディング・モデルを手に取り、NMRのカップリング定数より推定できる二面角から、立体配座を定めている姿を見て驚いた。HA100の測定を依頼し、チャートを受領すると、オペレータの佐々木さんの手書きの的確な構造式が記載されていることも屡々であった。測定で得られた各種のスペクトルは、当該有機化合物の構造を矛盾なく説明していなければならないことを、伊東研の全てのスタッフから実践的に学んだ。伊東先生のWoodward研をはじめとする有形無形の経験と、そこで交わった多くの有能な同年代の人脈形成が、「有機分析」という新しい方法論を掲げており、研究室と学科の隅々まで浸透していた。
 伊東研は、潤沢な研究費に恵まれてはいなかった。然し、野副鉄男先生、平田義正先生、中西香爾先生、柴田承二先生、向山光昭先生、正宗直先生、正宗悟先生、村田一郎先生、後藤俊夫先生、是枝正人先生、山本尚先生、などなど、多彩な特異な発想をお持ちの錚々たる有機化学者の訪問が絶えず、その都度、伊東先生から、学生たちとの無礼講の歓談会など、外国からのお客さんも含め、「潤沢な環境」を提供いただいた。歓談後、上杉のお宅に伺うことも多く、一子奥様もその雰囲気を楽しまれていた。
 試薬類や必要なガラス器具の設計と発注については、学生たちの自由裁量が相当範囲で確保されており、深沢さんが「小番頭」の役目を負わされてはいたものの、伊東先生から経費節減の小言を聞いたことはなかった。
 1978年6月12日17時少し前、伊東先生が東京出張から戻られ、いつもの早めの生協での夕食に出かける学生たちの何人かと挨拶を交わされ、自室に落ち着かれて程なく、宮城沖地震(M7.4)が発生し、講座の二つの実験室から出火する事件が起きた。先生も消火活動を担われた(100周年記念誌に詳しい)。その後、半年間の実験の中断は辛いものがあったが、一丸となって取り組んだ復旧作業の充実した期間が懐かしい。
 物事に動じることなく、学生の意志を摘むことなく、社会通念に縛られることなく、失敗を咎めることなく、自発性を待って、学生を育てる伊東椒先生の教育哲学は、教育に関係した者として、なかなか真似のできないことだと、改めて認識するこの頃である。
 IUPACや国際会議に伴う頻繁な先生の外国出張は、我々弟子たちにとって楽しみもでもあった。学生が25名を超えたある年、カナダと米国からの周遊講演から戻られた時のことである。両端に異なる形状の匙がある22cm程の長さの特別なステンレス製の薬匙を、全員の学生が土産として頂戴した。マサイ族の槍の刃先の様な形状と和船の櫂の形状の大きめの二種の匙が両端にある。「試薬を計り取るだけでなく、結晶化した天然物を選り分けるのに用いたり、時には、刃先を砥石で研ぎ整えて、自分用に加工して用いるのだ。」との解説も頂いた。今でも、大切にに私の実験器具容れに収まっている。
 先生が第一線を退かれ、カナダ国籍を取得されてからは、年に2回ほどの数ヶ月間の日本滞在を愉しまれていた。全国の弟子たちとの交流や名所探訪やトレッキングを殊に好まれていた。私は、化学を離れた多くの話題を聴かせていただいた。
◯21歳の薬剤少尉の体験譚
 薬剤少尉在任は、昭和20年1月から始まる。ご自身の倍の年齢を超える下士官を副官とする二十名程の部下の多くは、隊長の伊東少尉より年長者であった。
 大戦末期の貴重な医薬品合成用薬品の移送が伊東少尉に下命されたとき、若すぎる新任尉官の度量を部下の面前で確認する目的での行為と判断しつつ、副官の下士官が勧める酒を、自身の酒量限界を超えつつも飲み続けた挙句、意識喪失に加え、失禁したことを話された。部下たちの手厚い介抱を受ける羽目に陥たことは、恥ずかしいことではあるものの、若い指揮官の全てを「晒け出す」結果となり、年長の部下達のある種の信頼を得ることとなったことも、忘れずに付け加えられた。
 もう一題、先生の無常観と生死観に強い影響を与えた大戦中の体験譚がある。大阪の寝屋川(と記憶するが)に配属中の折、医薬品製造原料の輸送任務に対して、安全と思われる海岸道を選んだ。昭和20年は、既に米軍が本土の制空権を支配しており、米軍機の機銃掃射の非情な銃弾が、伊東少尉の隣席の部下の胸部を貫き、絶命に至らしめた。
 先生は、動脈瘤の除去という心臓蘇生術を伴う手術から二度生還されたが、伊東研同窓会で治療法と生還確率を淡々と語られていたことを思い出す。
◯秋田市の太平山トレッキングでの邂逅
 昭和32年春先、野副先生から、カナダのポストドクの急な話があり、同じ日本橋出身で後輩である村田一郎先生に、ご自身の論文の一部の整理を託し、慌ただしくWiesnerのところに旅立たれたことは、伊東研の飲み会で何度も聞かされている。
 少し健脚の衰えを自認されつつあったある秋に、秋田への訪問を受けた。ご一緒に、太平山の麓の散策に出かけ、偶然にトリカブトの花に遭遇した。紫の特徴ある花の形状をご覧になり、「自生するトリカブトは初めだ。Wiesnerのところでは、彼が決定したのは平面構造までで、絶対構造を決めるために結晶化することを依頼されたが、ネチョネチョしており、誘導体にしても旨く行かず、苦労の甲斐なく結晶化には至らなかった。」との思い出をご披露いただいた。アコニチンの絶対構造がX-線結晶解析によって決着がつくのは1972年で、当のWiesnerが結晶を提供した。尚、伊東先生が結晶化できなかったアコニチンと同じキンポウゲ科のデルフィニウム(大飛燕草)のアルカロイド毒(デルフィニン)の合成は、伊東研の管野毅さんがWiesnerのところで行っている。
◯学生の頃の貧乏旅行
 山岳部の部長を引き受けられた先生は、学生時代、友人を誘って、しばしば貧乏旅行に出かけられた。戦後の貧しい時代、村田一郎先生と北海道の阿寒国立公園内の屈斜路湖の湖畔を掘り起こし、湧き湯に入って疲れを癒したことや、「相棒は十分な軍資金(お金)はあるだろう」と互いに期待したものの、「汽車賃だけ」と判り、早々に切り上げて戻ってきた「噺」は、弟子達は、世代を超えて、幾度も聞かされている。
 仙台のオーケストラのコンサート・マスターも務めるほどのバイオリンの名手でもある生物化学に在籍する板谷英紀氏は、先生の気になる同級生の一人であった。2011年の初秋、先生のお供をして秋田県側から、すっかり整備され、綿毛のチングルマに覆われた八幡平の池塘群にある陵雲荘まで来た時、「ここは、板谷くんと一緒に来た処かもしれない。あの時は、ちゃんと装備を整えて松尾村から二人で登ってきたが、八幡沼に山小屋があり、この陵雲荘あたりだったと思うが、小屋に入ると背広姿の男性が青白い顔をして震えなが小屋の隅にいた。理由を聞くと、軽装のでまま、気がついたら此処までやってきたと言うんだ。他に理由もあったのかも知れないが、尋ねることなく、食べ物と防寒着を与えて「山の心得を説教」して下山させたことがあった。思い出すね〜。」と話された。岩手山を経て下山後、新聞には青白い御仁の記事は見当たらなかったとのことであった。
◯秋田での昭和25年卒業の同期会開催
 先生が日本に里帰り帰国をされると、きまって、何人かの首都圏在住の同期の方々と会食・歓談することを愉しみにされていた。交歓会では、同期のお一人で秋田に在住の理論化学の佐々木圭文氏の話題が屡々上がっているとのことだった。佐々木先生は、修士課程を終了後に物理化学を担当するために秋田に赴任された。同時に、本居宣長や平田篤胤を敬愛する古武士然とした風貌の長身の化学者でもあり神道学者でもあった。私は一時期、佐々木先生と同じ職場にあり、お世話になった。伊東先生が87歳の2012年春の来日時に、佐々木先生の近況を知りたい旨のメイルが届いた。「膝を悪くされ、手術を受けられたが芳しくなく、毎週の通院生活をなさっている」旨のご報告したところ、暫くして、「関東近辺の同級生の有志が、この秋に秋田で同期会を開催するので、一泊二日の会場を手配するように。」とのご下命があった。無機の柏倉越郎氏、服部信氏、有機の高須到氏、生物の小沢忠通氏、高木邦彦氏が伊東先生とご来秋され、理論の佐々木先生を交えた7名の宿泊同期会を存分に楽しまれた。
 尚、下戸で、一滴も召し上がらない佐々木先生は、翌日、奈良時代の出羽国の政庁跡(秋田城)にある護国神社に同期の方々を招かれ、「正式参拝」の機会を準備され、遠来のご友人への答礼とされた。

秋田宿泊同期会写真
2012年10月8日の秋田での昭和25年卒化学科同期会

 昭和30年頃、博士課程在籍の伊東先生は、秋田に奉職されている佐々木先生の下宿先への投宿を依頼されたことがあった。勿論、快諾を受けるのだが、佐々木先生から「深夜に、紀元節復活のビラを貼りにゆくので、手伝って欲しい。」との条件が付き、市内の電信柱の高所に100枚程のアジビラを貼り続け、空の白む頃に下宿先に戻る羽目となる「官憲の目を気にした深夜のビラ貼り冒険譚」も披露していただいた。
◯福井謙一先生のこと
 嘗て大学院の統計力学の授業を受講したことだけを手掛かりとして、福井謙一先生に大学祭での講演をお願いしたところ、「丁度、函館での学長会議があるので、その帰路に秋田に立ち寄ることができる」との了解を頂いた。盛況の講演会の後、福井先生は、講演料は固辞され、旅費は一度は受け取られたものの、後日、「秋田での講演は、教育の一環として、函館での公務の帰路に立ち寄ったので、旅費は既に京都工芸繊維大学から受領しているので、頂いた旅費は受け取ることができない。」と返送されたことを、出羽三山に向かう車の中で先生にご披露した。先生からは、「福井さんらしいね。昔、IUPACの関係で、タイに行くことがあり、福井先生とご一緒した。その折、タイの王室の方々にお目通りの機会があるので、その際の言上の所作について、Your Highness、Your Majestyを付け加えることを福井先生に話したところ、納得されたのだが、実際に拝謁した時には、用いられないんだよね。先生は。」と仰った。『ファーブル昆虫記』が大好きだった福井先生の「飾らない、生真面目なお人柄」について、話が弾んだ。
 福井先生とHoffmann教授は同時にノーベル賞を受賞されることとなるが、Woodward研に在籍した先生は、Hoffmannのコン・ローテイタリー/ディス・ローテイタリーの軌道対称性保存則による説明を好まれた。しかし、同期の佐藤忠久くんと私とは、福井先生のフロンティア軌道理論による説明の方がより合理的で、殊に三体相互作用の説明は、その汎用性に於いて理があると判断していたことを付け加えたい。
◯後藤俊夫先生のこと
 2017年、優れたお弟子のお一人の平間正博さんご夫妻と山形の加茂水族館を訪れられた。沢山の種類のクラゲを鑑賞され、その足で、秋田まで立ち寄っていただき、平間さんご夫妻を交えて旧交を温めることができた。下村脩氏の2008年のノーベル賞受賞の対象となるGFPのことが話題となった。その50年前の1957年に、オワンクラゲではなく海ホタルの発光体の単離結晶化について、長崎から来られた研究生の下村氏を指導されたのが、Fieser教授の下に留学される前の後藤俊夫先生であった。一足先にハーバードに居られた後藤先生は、Woodward教授のところに来られた伊東先生と生涯の親交を始められる。留学後の後藤先生は、平田先生が取り組んでおられたフグ毒の構造決定に取り組まれた。1964年の京都でのIUPACの天然物化学会議では、フグ毒の構造に関する発表が5題もあったと云う。後藤先生、津田先生、Woodward教授が示された構造が共通していた。ルシフェリンの結晶と異なり、融点を持たないテトロドトキシンの化学的性質上、構造決定を試みていた各国の化学者を悩ませたことを、伊東先生から聞かせていただいた。ビタミンB12の全合成に携わっていた岸先生がWoodward研から帰国して後藤先生のグループに入り、テトロドトキシンの全合成を試み、1971年に成功する。1964年の構造の正しさも証明される。その間、1970年に、一時期中断していたX-線結晶構造解析法で構造は確定されるが、岸-後藤による全合成の意義は大きい。
 私が学生であった時、雑誌会でのある発表者に対して、「何故に全合成を行うのか?」との私の質問を聞いておられた伊東先生から、「稚拙な質問だ。」と一喝されたことを思い出す。「先生の答えを拝聴する機会」はなかったが、今では「その必要性と意義」について、解説することもできると思っている。
◯津軽半島竜飛崎の思い出と『伊東節』
 「秋田 - 能代 - 十二湖 - 白神山地 - 鯵ヶ沢 - 亀ヶ岡 - 十三湊 - 竜飛崎 - 岩木山 - 大館 - 秋田」の周遊旅行に家内とご一緒した。白神山地の巨大イトウの養殖、鯵ヶ沢での津軽三味線、亀ヶ岡の遮光器土偶遺跡群、等を堪能し、二日かけて竜飛崎に到着した。竜飛崎には石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌碑があり、ボタンを叩くと特徴ある歌が流れてくる。この歌碑の仕掛けに、先生は頬を緩めて、幾度もボタンを押されていていた。
 歌碑に加えて、竜飛崎の先端には半世紀を経た石碑があり、「竜飛崎 鷹を放って 峙てり」とある。私は、「峙てり」が読めなかった。先生から「そばだてり」だよと教えていただいた。後で調べると、初代海上保安庁長官の大久保武雄が詠んだ句碑と判明する。
 十三湊から竜飛岬までは、舗装のアスファルトの匂いが伝わってくる完成直後の素晴らしい国道で、対向車に殆ど出会わなかった。走っていると、「この国は、国土の全てを道路にしないと気が済まない国だね〜。」と「チクリ」と久々の『伊東節』を呟かれた。

お別れに臨んで
 私の退職後に伊東先生とご一緒できた数年間の秋田探訪と各地への小旅行では、意識して「有機化学」を離れた話題を心がけた。伊東先生は「幅」と「奥行き」のある豊富な知識をお持ちである。それらを源泉とする人生譚の極一端をご教示して頂いたことは、幸せであった。
 私は、現在、ある作業に傾注している。こればかりは、一人で取り組む大事な課題であり、完成品を携えて、先生にお会いする所存である。『伊東節』の洗礼を再び受けることも半分期待しつつ・・・。
 伊東椒先生、一子奥様と、「ダンス」をお楽しみください。ありがとうございました。
                          

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