追悼


平 進一(昭22) 「平進一君を偲ぶ」 鏑木 真弘

片倉 徳(特別会員) 「片平図書室、片倉さんとの10年」 藤沢 和子

秋山 久雄(昭32) 「故 秋山 久雄 君へ」 小倉 協三(昭和32年卒)

赤城 元雄(昭36) 「赤城 元男君を偲んで」 北 信三(昭和36年卒)

赤城 元雄(昭36) 「赤城元男先輩の逝去を悼む」 三上 直彦

松本 克彦(昭28) 「松本克彦君を偲ぶ」 申 在均

高瀬 嘉平(昭26) 「高瀬 嘉平 先生を偲んで」 安並 正文

高瀬 嘉平(昭26) 「追憶(若かりし頃の想い出)」 向井 利夫


平進一君を偲ぶ


鏑木 真弘


 4月10日に開かれた昭和22年卒クラス会の一週間後、一昨年まで皆勤の平君が、肺癌でなくなった。同君は旧制水戸高校の出身、その前は商業高校出の異才、東京都立大の助教授を経て東レに入社、基礎研所長、工場長など歴任、退職後は文教大学の教授をつとめた。

 合理的な人生哲学をもつ貴公子だが、反面クラスで一,二を競う酒豪、高校時代は中距離の選手、最近は我々のゴルフ仲間であった。1年前に発病、あちこちに転移したが、淡々として療養、静かに悟って死を迎えたとか、葬儀には青野ら同級生5名が参列して、ご冥福をお祈りした。

 (会報掲載用に文面の一部を編集。)

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片平図書室、片倉さんとの10年


藤沢 和子


 片倉徳さんは4月30日、新寺の仙台中央病院で二週間ほどの入院の後、永眠されました。享年97歳。戦前、戦中、戦後の激動の時代の化学教室図書室を見守ってこられた方だった、との感慨を押さえることが出来ませんでした。とはいえ私がご一緒したのはご定年の前の10年あまり、さして長くはありません。ですから青葉山移転前、片平の図書室での片倉さんをしのびたいと思います。日ごろご自身にとっては「思いで深いのはやはり片平」と懐かしげに言っておられましたので。昭和38年、私が初めて出勤した図書室は質素ですが落ち着きのある重厚な雰囲気のある場所でした。それは白衣姿の片倉さんが醸し出されていたところもありました。本当にピッタリでした。洋風の外側に押し開く窓を背にした片倉さんの机の傍には来客用の椅子一客。この椅子には多くの方が腰掛けられました。

 思い出、その一。 千客万来。調べもので片倉さんを訪ねて来られるのですが、中には片倉さんが丁寧にいれて下さるお茶と対話も楽しみでこられた方もおられたようでした。お話によく耳を傾けておられました。片倉さんの暖かな雰囲気は訪れる人をリラックスさせたのでしょう。

 その二。言葉の達人。英語力、これは教室内では周知のことでしたが独語もお好きだったようです。戦後の出来事を話されたことがあります。化学教室も進駐軍との交渉が必要なことがあり、そのときには片倉さんが通訳として軍に同道されたそうです。「戦災で焼けだされ、モンペ姿でチビた、それも不揃いの下駄を履いて会議室に入ったら、まぁ、背の高い将校さん達、一斉にサッーと立ち上がるの。女性が入ってきたからなの」と。そのマナーにビックリの片倉さんなのでした。私がいた当時も海外から化学に来訪のかたがあると、よく片倉さんの出番です。東北大学図書本館に依頼して貴重な資料を展示してもらい、その説明にあたられたり、諸所のご案内に同行です。ですから今だったら「日本力検定」バツグン。歴史、地理、文化に通暁しておられました。そして、何より美しい日本語でした。明晰で表情に富みユーモアを交え丁寧な日本語でした。ご定年後は母校、宮城学院女子大に請われて英語の実務を教え若い女子大生との交流を楽しんでおられました。片倉さんは化学教室での日々の思い出を大切な宝物にしておられましたが、職業を持つ女性の先達として、片倉さんの存在は続く女性たちに有形無形の「元気」という贈り物をくださったと思います。

 片倉さん、長い間本当にありがとうございました。どうぞ、安らかにお眠りください。

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故 秋山 久雄 君へ


小倉 協三(昭和32年卒)


 東北大学は今年創立100周年を迎えたが、われわれ昭和32年卒業生にとっても、今年は卒業後50年という記念すべき年に当たるので、久しぶりに同級会をやろうじゃないか、と九州在住の寺山一清君(量子)から大きな声が掛かった。そこで、在仙の山本里見君(無機)、いわきの青木勝道君(生物)と相談のうえ、11月7日に作並温泉でやることに決めた。そして、各位の出欠を確かめるべく、同窓会名簿に従い、五十音順に電話をかけ始めて、愕然となった。電話に出た秋山君の奥さんから、君の突然の逝去を告げられたのである。あまりのショックで、次の電話を掛ける元気が出なかった。同級会の開催通知は秋山君の訃報を同封しての発送になってしまった。

 秋山君との出会いは化学教室に進んだ昭和30年である。共に野副研(有機)に所属して、君は修士課程修了後、住友化学へ、小生は博士課程へと、わかれわかれになったが、卒業後も学会や同窓会などで何度も会った。いつも明朗で、付き合いのいい君とはよく馬が合った。いろいろ楽しい思い出が残っている。知り合って間もなく、君と佐久間泰彦君(無機)と小生の3人で、吾妻から安達太良を縦走した時に共にした苦楽は忘れられない。佐久間君のリーダーシップ無しには成し得なかった強行軍だった。きっと秋山君もいい思い出として心に残していたに違いない。ちょっと吃音気味の君は雄弁だった。吃音の人は歌が巧いと言われるが、その通り、君は美声でバイオリンが巧かった。東北大オーケストラではビオラ奏者だった。実験室で夜遅く、バイオリンを聴かせて呉れることもあった。音楽好きだが、楽器は出来ない小生にはとても羨ましかった。住友化学の後はアプジョン筑波工場に移ったが、音楽サークルで活躍し、退職後も音楽活動を続けていたと聞く。われわれは同級会を1988年に東京で、また、1996年には、卒業前の会社見学旅行を引率して下さった瀬戸秀一先生(昭和14年卒)をお招きして、秋保温泉で行ったが、君はどちらにも出席して、あのよく透る独特の語り口で会話を弾ませた。勿論、この度の卒業後50年記念同級会でも間違いなく会えるものと思っていたのに、何ということか! 痛恨の極みである。今のところ、11名(50%)が作並に集う予定であるが、秋山君の追悼同級会になるだろう。

 奥様のご悲嘆や如何ばかりかを案じつつ、謹んでご冥福をお祈りする。

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赤城 元男君を偲んで


北 信三(昭和36年卒)


 トリプルボンド会(昭和36年卒の化学教室同級会)は久保君、坂本さんに次いで3人目の仲間を失ってしまった。

 君が逝って7ヶ月を過ぎた今年の1月下旬、量子化学講座安積研究室の同期佐藤政勝君と東京都西多摩郡日の出町にある君のお宅を訪ねた。彼は葬儀に参列できず、まだ君とのお別れが済んでいなかったのだ。

 奥様は我々を気持ちよく迎えて下さった。居間に入ると君のあの素晴らしい笑顔の遺影が迎えてくれた。その横には君が亡くなった当日も背負っていた愛用のリュックザックが置かれていた。書類やら本などでいつも一杯になっていた例のヤツだった。奥様はその部屋で君の最後の日の事を話して下さった。

 君は平成19年6月15日朝5時頃家を出て横須賀にある勤務先の海洋開発研究機構へ向かったが途中駅のトイレの中で絶命していたと。死亡推定時刻朝6時半、発見されたのが10時半、死因は急性心筋梗塞、心臓は2倍近く肥大しており3本の冠状動脈の75%が詰まっていた事が解剖の結果判明したそうである。

 突然に君を亡くした奥様の絶望感は察するに余りある。

 山で鍛え抜かれた頑健な肉体にも病魔は忍び寄っていたのだ。何の予兆もなかったのが不思議でありとても残念だ。

 君とは学生時代それ程の付き合いはなかった。君が山によく出掛けていたからだろうか。しかし中年を過ぎた頃から年毎に親交が深まった。その切っ掛けはいつも君が作ってくれた。安積研に縁のある先生方が学会などで上京された折、先生を囲む会のまとめ役はいつも君がやってくれた。大分前になるが片桐先生が見えた時は散会後、佐藤君と3人で千鳥ヶ淵で満開の夜桜を見物した。そのあと新宿にある君の馴染みの店に流れ終電車が無くなるまで楽しく飲んだのが懐かしい。また、早稲田大学エクステンション講座「山と文学」仲間の秋の蔵王連峰縦走の山行きにも誘ってくれた。東北大学山岳部の清渓小屋で、皓々たる月光の下で飲んだ君の故郷の酒の味は忘れがたい思い出だ。

 君に寄せられた多くの追悼文を読ませてもらい、また奥様の話も伺い、君が何と多くのグループ仲間達から好かれ、慕われ、敬愛されていたかを改めて知ることができた。

 山、「山と文学」、故郷津川高校同窓会、仕事関係、35年も続けていた英会話、家族、PTA、町内会、保護司などの。

 君の遺骨の1部は昨秋、大学山岳部の仲間によって中国雲南省の梅里雪山の山並みに散骨されたそうだ。君もその登山隊のメンバーであった。

 奥様は君が残した仲間達に癒され、励まされて悲しみを乗り越えてくださるものと信じている。

 我々は佐藤君が詠んだ手向けの句を君の霊前に捧げ、日の出町のお宅を後にした。

桜散るそこに漢の影法師 願はくは彼の世も酌まむ花見酒


赤城 元男君を偲んで

               筆者     遺影    佐藤政勝氏

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赤城元男先輩の逝去を悼む


三上 直彦


 いつも笑顔を絶やさない長身のスポーツマンで、和製ケネディと自称していた風貌通りの万年青年の先輩が、平成19年6月15日68歳の若さで急逝されたという訃報は衝撃でした。ご家族のご無念さと悲しみには比べようもありませんが、学生時代からのお付き合いを頂いていた後輩としては、痛恨の極みでありました。

 赤城先輩との出会いは、昭和39年4月の化学科学生講座配属が決まって、私が量子化学講座(安積宏研究室)に新4年生として参加したときに始まり、当時、燐光を研究していた先輩に暗室実験室に案内されて、真っ暗闇に不思議な光を放つ有機物の発光を目撃した瞬間は今も鮮明です。

 先輩はスポーツ万能でしたが、特に山が大好きな方でした。夏には飯豊山や朝日連峰を山越えしてご実家の新潟・津山に帰省するのが通例でした。私も先輩に誘われて南アルプスの北岳登山に同行し、2日がかりで山頂に直結する尾根の稜線にたどり着いた際の眼前に広がった仙丈ケ岳の雄大で荘厳な山容、遠雷に脅えながらも本邦標高第二の北岳山頂に立ったときの誇らしさ、甲斐駒、塩見や富士山を遠望しながら間ノ岳、農鳥を経て下山した山行5日の爽快さなどは、昨日のことのように鮮明に記憶しており、私の一生の宝です。

 先輩は山男に相応しいロマンチストでした。連日の徹夜実験にも関わらず、週末には姿を隠すことが重なり、研究室の皆はそれを訝っておりましたが、あるとき、先輩はうれしそうにその秘密を明かしてくれました。なんと、"週末には夜行列車で東京に出て、そこから新幹線でご婦人を宝塚にエスコートして、月曜日の朝には何事も無かったように実験研究に励んでいた"ということでした。宝塚ファンであったそのご婦人は間もなく奥様となられ、先輩を支えて温かい活動的なご家庭を築かれましたが、山男の雰囲気には想像もできなかった先輩の意外な"告白"を聞いて、研究室の誰もがその壮大なロマンスに驚嘆したものでした。

 その後、安積宏先生の停年退官に際して、先輩は日立製作所中央研究所に移られ、私は先輩の後を継ぐ形で量子化学研究室に残りましたが、新天地での先輩の活躍は、当時、テレビ受像機の一世を風靡した"日立キドカラー"の開発チームリーダーとして世界を席巻し、ニューヨークでの国際会議発表後には米国のGE,オランダのフィリップスなど当時の国際的家電メーカーからの技術協力依頼が殺到したと聞いております。その成果は、後日、工学技術分野の大賞である大河内賞受賞の栄誉に輝きましたが、我国が技術立国として世界の電子工学先端技術をリードする先駆けとなったものでした。当時、私は米国インディアナ州にある研究所のポスドクとして留学滞在しておりましたが、その会議の直後に我が家に立ち寄ってくださり、日・米欧間に関わる科学・技術関係の将来についての熱い会話に一晩中熱中しました。もし私がNHKのドキュメント製作者であったら、赤城先輩をモチーフにした「プロジェクトX」の1話や2話分のストーリーを思い付くことは極めて容易であったでしょう。

 先輩との思い出は尽きることがありません。つい数年前、まだ私が現役であった当時の研究室に学生リクルートで訪問したいとの連絡があって待ち受けていたところ、先輩は山男スタイルで研究室に現れました。私はその格好に面食らいながらも学生を集めましたが、その間に先輩は登山用ザックから皺くちゃになったスーツを平然と取り出してすばやく着替えて、先端企業の研究・開発活動について熱心な紹介を始め、その様子は学生時代から変わらない万年青年の面目躍如といったところでした。

 先輩は最先端の研究開発活動のみならず、地域環境保全活動や受刑者社会復帰援助など社会貢献活動にも熱心に取り組まれていると聞き及んでおります。出身の津山高校同窓会の関東支部長としても重要な求心力を発揮しておられたはずです。青梅マラソンを毎年完走するほどのスポーツマンだったのに、それらの活動の志半ばに旅立たれた先輩の関係者諸氏の無念さは筆舌に尽くしがたいことですが、私もその一人として、先輩のご冥福を静かに祈るばかりです。 合掌

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松本克彦君を偲ぶ


申 在均


鴎や春の歌のせて 眠りぞ深き隅田川 いま白雪は消え果てて 緑萌えたつ岸の色
金色の雲さゆらぎて 若き二高の陽は映ゆる 永遠の勝利の曲軽き 波に宿せる芙蓉峯・・・


 旧制二高尚志同窓会には校歌、明善寮歌をはじめ数多くの名曲があるがそのなかでもこの『対一高端艇競漕凱歌』は多くの同窓生が口ずさんできた曲であるが、今は亡き松本克彦君を偲ぶ時、真先にこの曲が私の脳裏によみがえった。

 思えば、昭和二十三年(一九四八年)旧制二高入学から新制東北大学第一教養部、理学部化学科,大学院修士課程修了まで七年間にわたる同期生であり、その後は職場と経歴は異なったが二高尚志同窓会、東北化学同窓会と新制化学科卒業生の『一期会』。それに同じ専攻の有機合成化学協会などで機会があるごとに互いに励まし合い、交遊を深めてきた松本君が『申よ、この曲は本当にすばらしい曲だと思う。機会があるごとに忘れずに歌おう』といった言葉を覚えていたからである。

 そして今まで、創立百二十年記念を迎えた二高尚志同窓会と一期会の最年少の同窓生としてその最後を看取ると自他ともに認めてきた松本克彦君がよもやこのように急逝されるとは私にはとても信じられない出来事であった・・・。

 ここで松本君を偲びつついくつかの思い出について記したい。

 旧制二高に入学してから一年間、松本君は理科三組で卓球部に属し、私は理科五組で水泳部に属しており、日常の授業や校内の行事などで互いに面識がある程度だった。その後学制改革により、新制の東北大学第一教養部に進学してから一九五〇年五月にかの『東北大学イールズ事件』が起こり、第一教養部での事件参加学生の処分問題をめぐって学友会で激しい討論が行われた時、学友会の幹事であった松本君と議論を交し合ったことがある。

 しかし松本君との本格的な交際が始まったのは、大学の後期過程の理学部化学科に進学してからであった。私は旧制二高在学の後半から在日朝鮮人学生同盟に加入し、第一教養部修了までその宿舎である榴ヶ岡の志学寮で同胞学生たちと寝食をともにし、民族意識を覚醒され学生同盟の民族的運動にも参加した。しかし学費負担の経済的な事情から、当時荒町にある伯父の家に世話になり、勉学を継続することになった。当時の荒町界隈は旧い仙台の城下町の佇まいを残しており、片平丁の化学教室に通学するにもとても便利だった。

 ところがこの伯父の家からほんの近くの東八番丁に松本君の家があり、また同じ荒町通りに、やはり旧制二高から化学科で同級の鈴木一実君の家があったので、化学科進学後、暇さえあれば松本君か鈴木君の家に押しかけ入り浸りの有様になってしまった。そして両君の家族との交際も始まり、家族ぐるみで心温まる厚遇を受けるようになった。

 松本君と日常的に交際して真先に感じたことは、実に博学多才であり、知識と話題の豊富なことだった。政治、経済、歴史、から科学技術、文芸にいたるまでいつどこで仕入れてくるのか知る術もなかったが薀蓄のある意見や談話に啓蒙された。特に東北地方の風土と地政学的特徴や東北出身の著名な歴史的な人物と旧制二高や東北大学にゆかりのある人材の業績やエピソードなどについて、私は松本君を通して多くのことを知ることができた。

 それに趣味や娯楽についても並々ならぬ才能の持ち主であった。『囲碁6段、将棋6段、卓球6段、ゴルフ100〜110、書画、寺院、美術館、博物館、漢詩、書』と数年前の一期会で自筆の近況報告があったが、よくもここまで至ったものだと驚いている。化学科時代、私も松本君から囲碁、将棋、麻雀、トランプなどの手ほどきを受けたが、勝負事には才のない私にはとてもついていかれなかった。

 互いに酒もよく飲んだ・・・。出自が陸前亘理の名家なので、一族のなかに醸造事業に関係した方が多かったようであるが、東北地方産の銘酒についての造詣も並大抵でなかった。松本君の近くにいるとき、どういうわけか仙台の銘酒『天賞』や『鳳山』、それに塩釜の銘酒『浦霞』によくありつけたことが懐かしく思い出される。

 歌もよく歌った。松本君は東北大学の合唱団のメンバーでもあったので、『野ばら』、『菩提樹』、『ムシデン、ムシデン』、『第九の合唱部分』など、それに旧制二高の寮歌をはじめ各旧制高校の名歌が歌われた。当時トロポイド化学研究に日夜奮闘していた有機化学の野副研究室に卒業論文研究で配置された松本君や私達が実験室で合唱したことがあったが、室長のM先生から、『ここは小学生の合唱練習場ではないのだぞ・・・』と冗談交じりに叱責?されたことも覚えている。

 大学院修士課程を修了して松本君は三菱化成に就職し、私は博士過程に進み別れ別れになったが、三年後の一九五八年に私が博士課程を修了して、東京の小平市に設立された朝鮮大学校理学部化学科の教員となったので、また東京での交友がはじまった。一九五〇年代末、松本君は三菱化成中研でアセチレンから得られるビニルアセタール誘導体に関する論文を有機合成化学協会誌に発表したが、それに興味をもった私がそれを契機として正会員として有機合成化学協会に加入した。それから約半世紀が過ぎたが、協会から奇しくも松本君と私、それにやはり旧制二高、東北大化学科の同級生であった岡山大学の教授を歴任した佐藤浩一君を永年会員として推薦していただきその特典によくしている。

 忘れがたい思い出がある。一九六〇年代になり、松本君は三菱化成中研から北九州の黒崎工場に配置された。その頃、私は北九州折尾にある九州朝鮮高級学校で教育実習をしている理学部学生の指導に出張することになったので、その機会に松本君を訪れることにした。黒崎の工場地帯を眼下に、はるかに玄海灘を望む高台にある社宅で、東北大学第一教養部で同級だった君子夫人の心尽くしの手料理を肴にして、夜を徹して飲み、語り明かしたことである。話題はもっぱら当時世界的に化学工業の一大転換期にあたり、特に有機化学工業で石炭化学とアセチレン化学から石油化学への転換問題であった。この問題に対して松本君は現場を通して化学工業の現状を正確に把握したうえで確固たる識見をもっており、その変換の必然性と日本の有機化学工業のその後の展望について熱っぽく語った。『申よ・・・石油化学への転換は必須であると思う。ところで君の祖国ではどうするのかな?石油を産出しない国ゆえ、従来のアセチレン化学に固執するかもしれないが、君が世界的な石油化学工業の趨勢についての情報や資料を提供してやるべきと思うが・・・』。この言葉で私は一九六〇年代に石油化学工業とそれに依拠した有機合成化学、高分子化学にかんする合法的に収集可能な資料を集めそれに私の意見もそえて、連携のあった科学院に送った。しかし当時の祖国の状況としては自力更正の原則が守られ、石油化学への転換は許容されるものではなかったようだ。これに反し南の韓国では、一九六〇年代後半に近代的な製鉄工業と小規模であったが石油化学工業を設立し、これがその後韓国の経済と産業の発展の原動力となったことと共和国での化学工業の現状を思う時、本当に残念な気がする。

 もう一つ加える。一九七〇年代になってから、松本君は新しく東京町田市に創立された三菱生命科学研究所の研究室長として赴任した。初代の研究所長は東大教授で生物化学の権威である江上不二夫先生であった。江上先生は美濃部東京都知事が私達の朝鮮大学校を各種学校として認可することに対し、大きな支援を送ってくださったので、面識もあり挨拶もかねて生命研を訪れた。江上先生に挨拶を済ませてから、松本君の案内で研究所の見学を終えた後、談話を交わしこれからの分子生物学とライフサイエンスの発展について松本君から貴重な助言と学術資料をもらった。それまで私はDNAとRNAの化学構造と機能や遺伝情報伝達の分子レベルでの機構などについてほとんど無知の状態であったが、このことが刺激となって、初歩的ではあるが分子生物学の勉学にも励み、私の生物有機化学特論でこれらの内容を含めて講義するようになったのは私にとって踏み台となった。

 ところで二十世紀末から二十一世紀初にかけて、朝鮮と在日同胞を巡る状況は厳しさを増し、私達在日同胞達の民族運動や民族教育に対する逆風が吹き荒び、私の民族運動についても同窓会やその他の集まりで、一部マスコミの悪意に満ちた中傷誹謗により、いろいろな意見や誤解も飛ぶ出したことがあった。このような時、いつも一貫して私の立場をかばってくれたのは松本君であった。『申は在日朝鮮人二世として平山彦太郎の名前で旧制二高に入学したが、民族意識に目覚めて申在均と本名に改名した。その後、彼なりに悩み、もがきながら学問の探求と在日同胞の民族運動に打ち込んできたが、彼は十年間仙台で学び、多くの人士とも交際し、東北人の気質と根性をもよく知る、希少な在日朝鮮人インテリである。今後、彼が東アジアで朝鮮、韓国と日本との学術、文化と知識人たちの交流に橋渡し役を果たすべき立場と役割をそれなりに肯定的に評価すべきでないのか・・・』といってくれた松本君の友情を私は一生涯忘れることができない。

 旧制二高尚志同窓会は百二十年記念祭を迎え、有終の美を飾った。でも一期会には年老いたといえども、松本君をはじめ、旧制二高出身では鈴木信男君(東北大教授歴任)、高橋憲助君(名工大教授歴任)、佐藤浩一君(岡山大教授歴任)、安倍信夫君(秋田大教授歴任)、津田守三君(北里大教授歴任)らが、それに池上雄作君(東北大反応化学研究所長、三島学園理事長歴任、旧制山形高出身)、高村勉君(東芝中研所長、立教大教授歴任、旧制弘前高出身)、戸田敬君(宇都宮大工学部長歴任、麻布高出身)など錚々たるメンバーがおり、今後とも機会があるごとに交友を深めていきたいと思う矢先に松本君の訃報に接し、名状しがたい寂しさに襲われている。今はただ生前の松本君のあの面影を偲び、冥福を祈るのみである。

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高瀬 嘉平 先生を偲んで


安並 正文


 昨年12月3日、日大工学部での講義を終り帰宅して間もなく、ご長男修さんからの先生の訃報を受けました。高瀬先生とは毎年暮れに、お宅にお伺しお会いしておりましたが、この冬休みにもと思い準備をしていた矢先で、あまりにも突然なことで言葉もありませんでした。

 ご自宅での納棺の際先生のお顔を拝眉し、そして通夜、告別式で先生の遺影の前に立ちました時、高瀬研究室で院生・職員として過した日々のことが、走馬灯のようにかけめぐり、また高瀬先生から教えられた数多くのことが、次々と思い出されました。

 高瀬先生は学外・学内において多くの要職を歴任され、研究面では七員環化合物・アズレン系化合物、そして天然物化学に関する分野で多くの業績を上げられました。これらのことは、 平成18年の「瑞宝中授章」の受賞に象徴されております。

 「有機合成化学協会東北・北海道支部」の支部長をされている時、若手の研究者に研究発表の場を設けよう、とのご発案で支部主催のセミナーを新設されました。このセミナーは「有機合成化学若手研究者の仙台セミナー(昨年第22回)」として現在も継続されております。

 化学教室では、片平地区から青葉山への移転の大事業にあたり、「移転委員会」の委員長として、各研究室から出された様々な要求を、限られた面積の中に収めるという難問題の解決に努力され、現在の化学教室の建物を作り上げられました。

 先生のご研究面での輝かしいご業績を紹介することは、この場での趣旨ではないと思いますので、強く印象に残っている一つのことのみを書かせていただきます。

 高瀬先生は非常に実験がお上手でした。特に再結晶、中でも分別再結晶のテクニックは神業的であったと思います。片平キャンパスにあった旧化学教室の玄関脇、104号室の一番奥の実験台で、フラスコの中できれいに成長させた結晶を、左手に持ったスパチュラでかき混ぜながらロートに流しこんで濾過しておられた姿が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いております。

 ヒノキチオールの臭素化で生成する、3,7-ジブロモ体と5,7-ジブロモ体の分別再結晶では、二つの混合物を酢酸エチルに溶かし、最初に析出する3,7-ジブロモ体の結晶を見ながらタイミングを見計らって、隣のフラスコにデカンテーッションすると、そのフラスコでは5,7-ジブロモ体の結晶が析出し始めるとう、あのテクニックにはただ驚くばかりしてした。

 この再結晶のテクニックが遺憾なく発揮されたのがドラブリンの発見です。先生がヒノキチオールの精製のため行っていたNa塩の再結晶の際、異なった結晶のあることを発見し、それを取り出しドラブリンを単離されました。そしてヒバ精油から得られる七員環化合物の混合物をそのまま酸化して、ドラブリンを水溶性中間体として分離し、それを再び酸化アセチルトロポロンを合成する方法を確立されました。そしてこの反応性に富んだ化合物を合成中間体として、数多くの七員環化合物を合成されました。


高瀬 嘉平 先生を偲んで


 なかでも当時世界中でその合成が競われていたコルヒチンの合成研究は、今でも誰がみても段階の少ない優れた方法で、この頃の研究室は,連日連夜、張りつめた緊張感の連続でした。残念ながら最後の一段階が進まず、当時は未完成に終わりましたが、合成反応が著しく進歩した現在、今でも注目されているコルヒチンの合成に、この方法が見直され多量合成に適した方法が確立される日が来ると思っております。

 高瀬先生は何事にも寛容な先生でした。間違って実験装置を壊しり、貴重な原料を駄目にしてしまった時も、決して厳しく叱りつけることなく、何故そうなったかを詳しく説明してくださいました。

 また先生はこよなく花を愛されました。ある時、月下美人が咲くから、と言って研究室に運んで来られたことがあります。この時は先生の奥様も、夜食のおにぎりを持ってきて下さって、皆なで徹夜してその瞬間を観察したことがありました。またサツキの頃になると研究室はもとより、隣の研究室、化学教室の事務室、あるいは理学部の事務室にまで先生の育てられたサツキの鉢植えが置かれ、多くの方々を楽しませてくださいました。

 高瀬先生の一面として、化学教室野球大会のマウンドでの名サウスポーとしてのご活躍、囲碁・将棋、そして麻雀など勝負事も忘れることのできないことです。高瀬先生の思いでは尽きませんが、紙面の制限があります。

 先生のご冥福を心からお祈りしながら、ペンをおきます。

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追憶(若かりし頃の想い出)


向井 利夫


 化学教室で最も長く(60年間)交際してきた高瀬さんが亡くなった。悲しさ、寂しさ、それに無念さがこみ上げてきた。高瀬さんと私は同郷(群馬)それに学校(桐生高専)も同じだったので、学生のときから深く付き合った。峨峨温泉で仮眠して、大河原駅から刈田岳、熊野岳、蔵王温泉、半郷と1日半で山形駅までの踏破などはその一例である。そんな彼が3年になって野副研究室を希望し、しかも私の部屋に入ってきたのだから嬉しかった。研究では昭和25年から28年までに共同研究、7つの論文を発表した。その中から優れたものを取り上げ、当時を思い出しながら顕彰したい。最初のテーマはヒノキチオールの臭素化で、立体障害の大きな3−置換体を取り出すこと。泥臭いテーマだったが、条件を変えての臭素化は数十回、時間のかかる分別再結晶が主な仕事、当時は野副先生が日に数回実験台にこられて、しごかれ、泣かされた。私の泣きは実験台が同じ高瀬さんが一番よく知っていた。おかげで野副流の考え方とやり方を習得することができた、私と高瀬さんが実験上手と言われた因はこんなところにあるのだろう。次の仕事はオキシメチル化反応、トロポロン核への炭素官能基導入の最初の例である。私はアメリカからの新着の本を見てテーマを指示しただけ、後は高瀬さんがヒノキチオールや多くの誘導体に拡張した。実験にのめり込んだせいか、私の口出しを好まなかったようだった。これを契機に、良い研究者にはおまかせが良く、研究指導の理想は丸投げにかぎると悟った。ちなみに前年、村瀬正夫さんを指導してヒノキチオールの合成に成功した時は彼のやり分まで手を出して不満をかった。この頃であろうか、高瀬さんが無水エタノールの精製で火を出して左手首に大やけどを負った。亡くなるまで傷跡は残っていたはずだ。その際の振る舞いが立派だったことは今も頭の中に残っている。

 基本化合物のトロポンの研究はアメリカのDoering とDaubenに先を越されたが、その重要性から、私は落ち穂(実際は宝の山)を拾って自分の学位論文にしようと取り上げた。難点はトロポンの入手にあった、当時北原さんの方法でトリブロモトロポンが容易に多量に手に入ったので、その水素化、脱臭素化による事にした、しかしトロポンの芳香族性の欠如から還元が進みすぎて難渋した、その際触媒毒を工夫してトロポンの収率を50%まで高めてくれたのは高瀬さんであった。お蔭でヒドラジンによるトロポンの2−アミノ化(野副、向井の反応)や環状ジエンとの新規付加反応などを見出すことが出来たが、後者の構造は決めずに残してしまった。15年後、忘れた頃、Coolsonや伊東、藤瀬らによって構造が明らかになり、熱的6+4型付加の最初の例として世の注目を集めた。光反応として6+6型付加を私は見出していたので、熱、光の対比する新反応発見の栄誉を逃したのは慙愧の至りである。今考えると、囲碁の名人で、理詰めの高瀬さんの助力を得るべきであったと後悔している。

 もう一つ画期的な仕事は2−アミノー1,3−ジアザアズレンの合成である。当時、複素環アズレン類の合成は野副先生が熱望していたテーマであり、数グループが先陣を競っていた。そんな中、トロポロンメチルエーテルとグアニジンの縮合で一番乗りを果たしたのは高瀬さんであり、温厚だが腕っ節の強い勝負師の一面を示した。

 研究室を主宰されてからも優れた業績を上げておられるが、お弟子さんや研究室の関係者から追悼文が寄せられるだろうから、敢えて重複を避けて、私だけの昔の想い出を書き綴って追悼の文とした。終わりに生前のサポートに対し感謝の気持ちを表し、心からご冥福をお祈りして筆を擱く。


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