手老省三先生御退職特集


「手老省三先生の退職によせて」 新潟大学自然科学系 生駒 忠昭

「手老先生の御退職に寄せて」 信州大学全学教育機構 勝木 明夫


手老省三先生の退職によせて


新潟大学自然科学系 生駒 忠昭


 拳を軽く握り締め、直角に曲げた両腕を前後に揺さぶりながら、「サーッて。」と力強く息を吐く。お茶飲み休憩から研究活動に戻ろうとする際に手老研の学生がとるコミカルな仕草です。知ってか知らずかセミナー開始直前の手老先生も同じ仕草。どうやら、研究に没頭しようとするときの癖のようです。先生は、若い人達との議論を何よりも大事にされていました。データの信憑性・解析の妥当性・考察の論理について議論が続き、問題点に対する対応策が見つかるまでセミナーは終わりません。繰り返される試練を乗り越えた学生が無事卒業されたときなどは、ホッとした表情をされておられました。毎年続くこうしたやり取りを傍らで拝見し、「根気強いなぁ。短気な俺には務まらね〜や。」と良く感心したものです。

 研究室の創立当初、先生はバドミントン大会をしばしば催されました。バドミントンの腕前は冗談抜きで素人離れ。トーナメントでは常勝組み。しかし、その影でペアーを組んでもらう相手探しに、幹事は近隣の研究室を訪ね歩きました。毎回新メンバーが加わるため、大会後のコンパも盛り上がりました。おかげで、研究室間での実験器具の貸借は、気兼ねなくできました。ここまで先生が考えて大会を主催したかは定かでありませんが、明らかにバドミントン好きのおかげでしょう。

 先生の教養の広さについて言及するまでもありませんが、会食や飲み会の席では政治・経済・歴史・文化・芸術と多岐に渡ってお話され、周りがいつのまにか知的な雰囲気になっていました。しかし、博学がもたらす悪戯も沢山ありました。一番の功罪は、人を凍らせる親父ギャク。セミナー中の「塩が入っていない溶液じゃ、しぉうがないなぁ。」発言から芋煮会における「コンニャクを婚約者と今夜食う。」暴言まで、訳分からない駄洒落の数々。目を泳がせながら閉口している我々を気にも留めず、駄洒落の後は決まって大きな一人笑い。言葉遊びが上手な秘書とは連日駄洒落の応酬。微妙な緊張感の中、二人だけの世界が構築され、周りはいたたまれなくなってしまいました。駄洒落癖が高じてか、先生は現在俳句を楽しまれているとのこと。「へっ?!そうなの?!」と妙に納得するのは私だけではないはずです。

 ある日、突然部屋に友人がやって来て、「手老先生最高!!生駒さんは良い先生の助手でいいなあ。」とべた褒め。「そうかあ甲先生。お金でも、もらったんかい?」と懐疑的な私。友人曰く「○○の結婚式で先生がスピーチされたんだよ。「科学は文化です。」って。」。「へ〜え甲先生。それで何?」と私。友人「感動しないの?僕は感動したなあ。」。私「あっそっ。良かったネ。」。友人「話にならん。」と背を向け退室。常々、手老先生は「ScienceはCultureで、Technologyと違う。」とおっしゃっていました。その真意をお尋ねすることはありませんでしたが、道に迷っていた友人は、先生から"はやりに惑わされることなく真理を探究することが大事"と諭されたような思いだったのでしょう。

 今年の三月で先生は退職され、学生がする憂さ晴らし物真似もすっかり見られなくなりました。研究室における先生は、一貫して密度の濃い人間関係を維持するために心を砕かれていました。その姿は、時が良くても悪くても笑い飛ばしながら前向きに生きてゆくことを教えて下さっているようでした。現在は、東北大ナノテク融合技術支援センターで産官学連携に関する仕事をされているとのこと。新天地での経験を踏まえたご意見を今後も伺えるものと期待しております。

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手老先生の御退職に寄せて


信州大学全学教育機構 勝木 明夫


 手老省三先生,御退職おめでとうございます.

 仙台を離れて早12年経ちました.今は信州松本で大学1, 2年生の講義と磁気科学の研究をしています.御多分にもれず,独法化のために多くの雑用に追われている毎日です.そんな慌しい時間の中にいるときでも,少し古いアルバムを取り出して眺めると,仙台時代の花見,バドミントン大会,芋煮会,実験中の写真,送別会など数多くの写真が出てきます.手老研究室の送別会で頂いたコーヒーカップは,取っ手の部分が欠けながらも現役でいつも使っています.

 私が大学院生として手老先生の研究室に入ったのは1988年(昭和63年)で,そのときの研究室名は非水溶液化学研究所磁気化学部門でした.池上雄作先生が教授でおられ,手老先生が助教授,秋山公男先生が助手,生駒忠昭先生(現 新潟大)が博士課程の院生でいらっしゃいました.青葉山にある学部の研究室と比べて,学部生がいないため,学生の割合が低く,かつ自由度が大きく感じられる研究室でした.ただ,研究テーマが4年次のときと異なるため,もう一度最初からやり直す思いが自分の中に重くありました.しかし,研究室でのゼミ,輪読,および研究で,手老先生,秋山先生を中心に活発に,しかも見かけや言葉使いは優しいのですが,非常に深い討論が行なわれ,その過程でスピンを単位とした研究の基礎だけではなく,科学に対する姿勢,考え方を(先生から見たら物足りないと思いますが)自分なりに身についていったと思います.このときについた視点や角度(というのでしょうか)が,その後の研究生活で展開する上での基盤になりました.その当時は,自分なりに考えて振る舞っていて,迷惑をかけている気持ちは全くなかったのですが,学生を指導するようになった今から振り返ると,大変申し訳なく思う点が多々あります.今の悪い学生を見ても「学生時代の自分よりマシ」と思ってしまいます.この場を借りて深く御詫びしたいと思います.

 研究面について詳細は他の先生に譲りますが,手老先生は電子スピン共鳴分光法を用いた励起三重項状態,電子スピン分極の研究にとどまらず,光と磁場によるスピン制御(photo-スピントロニックス)への展開,そして物質科学や生命科学等の他分野の研究者も巻き込んで先生を中心に電子スピンサイエンス学会を立ち上げて,一つの大きな流れを作り上げたことは記したいと思います.これらの研究活動を通して,私の鈍い眼にも先生の非常に謙虚で自分に厳しい姿勢が見えたとき,研究者としてのあり方について考えさせられました.と言っても,今もって答えが出ない状況です.

 私が仙台を離れて広島,信州に移ったあとでも,常にお世話になりっぱなしでした.イスラエルでの学会で一緒になったときは,そのときの写真をカレンダーにして送ってくださったこともありました.また,私が信州大学教育学部にいたときは,学生に最先端の研究を紹介したい,という私の希望で先生に非常勤講師を依頼したときも快諾してくださいました.はるばる信州長野まで来ていただいて,教育学部の学生達に演示実験も交えながら分かりやすく話をしてくださったこともありました.

 これだけではなく,他にも先生にはいろいろな面で本当にお世話になりました.最後になりましたが,先生は御退職後も電子スピンサイエンス学会会長,光化学協会監事を担当されるということで,これからの手老先生の益々の御健勝と御活躍をお祈り申し上げます.


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