伊藤 攻先生御退職特集


御退職寄稿 「東北大学45年の研究生活を振り返って」 伊藤 攻

「伊藤攻先生のご退職によせて」 大阪大学産業科学研究所 藤塚 守


東北大学45年の研究生活を振り返って


伊藤 攻


伊藤先生


 数年前までは、化学同窓会名簿が2年に一度送られて来ると、それをパラパラとめくって年々自分の名前が名簿の前の方に移っていくことに自分の歳を実感する思わぬ指標となっていた。若い人達に囲まれて大学に居ると精神年齢に身を任せているため、定年退職の現実に遭遇してはじめて自分の実年齢を感じている自分にあきれているのである。

 この化学同窓会名簿を見てもう一つ気づくことは、自分の学部卒業年度である昭和41年卒から卒業生が70名になりそれまでの35名と比較して倍増したことである。昭和37年の入学試験案内の片隅に、今年から東北大学理学部の定員が250名から285名に増えることが書いてあり、私は藁をもつかむ心境でそれまで迷っていた学部選択に踏ん切りをつけて理学部を選んだのあった。実際入学してみると、自分はこのプラス35名の一人に違いないと思いこんでいる多くの謙虚な友人に出会うことになった。4年生で小泉研究室に配属されると、それまでの年に2−3名であった配属学生数から9名への激増で、先生や先輩の困惑した顔と向かい合うことになった。ようやく大学院を修了して東北大学非水溶液化学研究所の助手に採用されてみると、この年度の化学同級生が東北大学だけでも10名近く助手になっており、一大勢力となっていた。 他大学や会社の研究所などに就職した同級生が仙台に来ると、それを機会に同級生だけの研究発表会や飲み会をやることができる程の数で、先輩や後輩からも「一種の圧力団体」と揶揄されることもあったが、こうして「長い助手時代」を励ましあって過ごした。10年ぐらい経つと約半数の同級生は他大学へ助教授などに昇進して移っていった。先に他大学の教授になった同級生の友人が私の教授昇進のために推薦者になったりしてくれたこともあり、周囲の人達にはあきれられたりした。大勢のなかには助手で頑張り通す「つわもの」もいたが、ともかく、会えば学生時代に戻って、言いたいことを言い合える間柄であった。

 幸い、14年前に東北大学反応化学研究所の教授に昇進し、片平キャンパスの旧化学教室の小泉研と第2学生実験室の跡に新設研究室を設営して研究・教育活動を開始した。研究所の名称は多元物質科学研究所に変わったが、その場で無事に定年を迎えることになった。旧化学教室の建物の正面部分は化粧直したり絨毯を敷いて東北大学総長室や理事長室など大学中枢機構に「明け渡し」てしまったので、化学科出身者としては私が最後の旧化学教室利用者になった。ともかく、学生時代に使っていたのと同じトイレを使って定年を迎えたことになったのである。

 また、青葉山キャンパスの化学専攻教授会が行われる会議室には歴代の教授総勢約45名の肖像画や肖像写真が掲げられているが、それらの監視下で会議を行うのは結構スリル感があり、やはり歴史を感じる場でもあった。私が実際に授業や研究指導を受けた先生で一番古いのは歴代10番目の野副先生で、それ以降ほぼ全員の教授とお付き合いできたことは、かなりの幸運であったとの感慨を抱かざるを得ない。さらに研究所や工学研究科にも理学部化学科出身の先輩教授が多数おられて、大変お世話になった。東北大学が100周年を迎える時期に計算してみると、入学から定年退職まで約45年間在籍していたので、100年の歴史の約半分を東北大学で過ごして来たことも、自分が歴史上の一人になってしまったのかと、ちょっと不思議な時間の感覚を持たざるを得ない。

 自分が卒業した当時の心境では、正直言って同窓会などの存在には、むしろ否定的であったような記憶があるが、定年退職時の現在から振り返ってみると、多くの立派な先輩に出会って触発されたことも度たびあった。まさに、ヒューマンネットワークの恩恵を受けたことになる。

 現在、かくも変容した自分を弁解するとすれば、「東北大学化学同窓会」が包容力のある組織で、まさに「門戸開放」的であったためではないかと思う。実際、大学院生時代の指導教官は東工大から赴任したばかりの小壮気鋭の籏野昌弘教授であったし、非水研の助手時代の上司は大阪市立大学出身の40歳になったばかりの若き松田實教授であった。その当時、駆け出しの世間知らずの私が怖いもの知らずで投稿した論文をアメリカ化学会誌のエデイターやレフリーは公平かつ誠実に審査してくれたことに感激して、次々に研究にのめり込むことになった。また、これらの研究を通じて世界中の多く研究者と手紙のやり取りや、ゴードン・コンフェレンスなどで親交を深めることができた。当時の宇宙開発のテレビ画像から得たコスモポリタン的雰囲気と相まって、その後、世界の多数の研究者と共同研究を続けることになった。定年退職を機にまとめた論文リストから100名以上の外国人の共著者を数えることができる。昨今は、東北大学も国際的交流を推進するプログラムが推進されているが、「私費でも国際会議へ出席すべし」と思い、がんばって世界に出かけていた私共の助手時代とは隔世の感がある。ともかく、このような活動のおかげて、学術専門誌の退職記念号を出してもらうことができた。

 私の研究スタイルのためか、国内の他大学の共同研究者も100名以上になっている。こういった「国際的協力」や「大学間協力」と、ここ数年声高にさけばれている「大学間競争」をどのようにバランスを取っていくのか、結構むずかしい問題に当面しているように感じる。

 我々の世代が時代を先取りし過きたのか、時代が逆行しているのか、自分の平衡感覚がおかしくなってきて、時代の流れについていけなくなったと感じ始めたところで、幸いにも退職となり悠悠自適の生活に入らせてもらうことになった次第である。

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伊藤攻先生のご退職によせて


大阪大学産業科学研究所 藤塚 守


 今年3月に定年によりご退職された伊藤攻先生より長年にわたりご指導およびご厚情を賜りました。感謝を込めて同窓会誌に寄稿させていただきます。私は1996年に助手として採用していただき、2003年に大阪大学に赴任するまで伊藤研究室にお世話になりました。また、大阪大学に籍を移した後も、学会等でお会いするたびにいろいろご指導いただきました。

 教授となられてからの伊藤先生のご研究は、フラーレン類を中心とした種々の化合物の光化学過程に関するものであり、これらは数多くの論文として発表されております。伊藤研究室内でも分子設計をおこない化合物を合成することがありましたが、他研究室で合成された化合物についても検討することも多く、これらの研究を通して、従来であれば得がたい、幅広い貴重な体験ができたと思います。国内外の多くの研究室との共同研究は世界でも最先端の研究を行っているという興奮をもたらし、また、得られた結果を理解するための勉強も有意義なものでありました。測定で得られたデータはすぐに伊藤先生に見ていただき、そのたびに適切な指摘をしていただきました。また、研究の進展と共に、様々な測定機器がほしくなり、特に、時間分解測定を行っていると、ナノ秒よりはピコ秒、さらにはフェムト秒と際限なく興味が広がっていくものですが、伊藤先生にはこれらの高価な機器をそろえていただき、世界でも有数の環境で研究をさせていただきました。

 伊藤研究室で数多くの共同研究が可能であった理由の一番大きなものとしては、伊藤先生のお人柄であったと思います。学会のポスター会場や懇親会などでお姿は見えなくても伊藤先生の豪快な笑い声でどこにおられるかすぐわかるほどで、数多くの研究者と良好な関係を築かれ、それが共同研究に展開していったことが多々ありました。さらに、論文などから常に最新の情報を把握されておられことも、これらの共同研究を可能にしたと思います。

 また、研究室内では常に学生やポスドクの研究を大切にされておりました。学生およびポスドクのメンバーが研究をしやすいような環境作りに絶えず気を配っておられました。

 伊藤先生の下で助手を勤めさせていただいたことは、非常に有意義であり、今後の道標ともなるものでした。また、今年4月からも研究に携われるとのことですので、学会等でお会いできることを楽しみにしております。


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