藤村勇一先生御退職特集


御退職寄稿 「近況」 藤村 勇一

「藤村先生のご退職によせて」 東京大学大学院理学系研究科 加藤 毅

「『今』に対する集中力」 慶應義塾大学理工学部 菅原 道彦


近況


藤村 勇一


 東北大学創立100年の記念すべき年に定年を無事迎えることが出来ましたことは,偶然とはいえ,感慨深いものがあります。昭和43年(1968年)4月に本大学院博士課程に編入学してから,博士研究員として米国に滞在した1年半をのぞいて,38年間もの長きにわたり化学教室にお世話になりました。その間,本同窓会の先輩の方々から激励をいただき,よき同僚・学生・院生諸君にめぐまれ,理論化学の仕事を続けることができました。支えてくださった方々に感謝いたします。

 この3月に,最終講義「光で分子を操る」,また,5月には国際シンポジューム "Molecular Science of Ultrafast Electronic Dynamics" を開催していただき,これまで進めてきた研究の概略と一部をお話ししましたが,まだ研究を総括する気持ちには至っておりません。同窓会から与えられましたこの機会に,近況をお伝えいたします。

 現在,二つのことを行っています。一つは,客員教授として数理化学研究室に在籍して,分子キラリティーの量子変換とキラル誘起光ダイナミクスに関する理論研究を続けさせていただいております。もう一つは,川内に於いて,全学教育少人数授業「基礎ゼミ」を担当しています。後者は,これまで担当していた化学の授業とはその性格がまったく異なるもので,新鮮な気持ちで取り組んでいます。

 ご存知のように,「基礎ゼミ」は,昨年「特色ある大学教育支援プログラム」(特色GP)に採用され,全国的に注目されています。これまでの講義を受けるときのような受身的なものではなく,学生の主体性を育むことを身につけることを目標としています。したがって,授業題目は専門的なものでなく,学部横断的なものであることが要求されます。 基礎ゼミには163のクラスがあり,原則として,1クラス20名以下で行います。2単位の必修科目で理工系,文系の別なく新入生はクラスを選択希望できます。

 私は「現代社会における自然科学の役割」という担当授業題目をかかげました。授業題目の性格上,学生に先入観を与えないために,オリエンテーション時の自己紹介のときに,私が理学部の化学出身の教員であることはあえて伏せました。受講学生は20名で,私の予想に反し,理工系より文系の学生が多いです。文学部の学生7名,教育学部生2名,法学部生2名,経済学部生1名,医学部生1名,理学部生4名,工学部生2名です。

 この授業を希望した理由をきいて見ますと,1)人間と科学の関係に興味がある,2)歴史の流れとともに人々がどのようにして新しい技術を受け入れてきたのか知りたい,3)科学がこれからどのように展開するのか,4)科学技術が抱える倫理的な課題をどのようにして解決していくか,自分とは異なる学部の人と意見交換したいから,5)理系の学生との議論を通して自らの世界観を広げるため,6)高校の世界史の授業でイスラムの科学が発達していたことを知り,社会の発達と自然科学の関わりに興味があったから,7)文理融合の内容だから,など多様です。文系に所属していても科学に興味を持ち,理系の学生とともに学び,知識を共有したいとの希望をもっていることは,このゼミの授業をやりがいのあるものにしてくれました。授業にも全員が出席してくれて,活発なゼミとなっています。

 本基礎ゼミで取り上げた具体的なテーマは1)古代の物質観,2)中世イスラム社会,3)エラスムスによるキリスト教批判,4)宗教と科学,5)近代科学の幕開け,6)産業革命,7)20世紀の自然科学,8)文明の発展とエネルギー源の変遷,9)公害の原点,10)地球環境と国際協力などです。学生はこれらのどれか一つを選んで調べ発表し,それをもとに討論します。理工系,文系の学生が選べるようなテーマを設定しましたが,文系の学生が2)や3)の文系の学生が取りやすいテーマを選択するとは限りませんでした。テーマ「20世紀の自然科学」を希望したのは文系の学生であり,ボーアの原子モデル,量子力学の誕生についてよく調べ,発表してくれました。

 私が基礎ゼミのアンケートをとり,発表テーマの中で最も興味のあったものをあげてもらいました。ギリシャ時代の自然観,中世のイスラム社会,錬金術の歴史,地球環境と国際協力,公害の原点,さまざまなエネルギーと原子力,について興味が高かったです。 特に,ギリシャ時代の哲学者デモクリトスが提案した原子論がなぜ否定されローマ時代に引きつながれなかったのか,キリスト教支配の中世ヨーロッパの科学の停滞の原因,地球環境と国際協力などに関して活発な討論がありました。

 言うまでもなく,科学は時代の政治・経済に左右されると同時に,現代においては,一国の政治・経済に大きな役割を担っています。 地球規模の様々な問題を解決して21世紀に安定した社会を実現するために,大学の使命である教育に於いては,文理融合型の授業科目を充実していくことが必要です。今回,基礎ゼミを担当して,新入生達がそのような授業を望んでいることを改めて実感しました。

 最後に,スナップ写真はゼミの学生諸君と撮ったものです。


藤村先生

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藤村先生のご退職によせて


東京大学大学院理学系研究科 加藤 毅


 藤村勇一先生のお名前をはじめて知ったのは,もう二十年近くも前のことになる.現在数理化学研究室准教授の大槻幸義先生が助手になられたとき,「新任教官からの一言」といった記事を書かれていて,それを図書館で読んで先生の存在とそのご研究とを知った.確か"強い光の場の中での分子の挙動"といった内容であったと思う.学部三年生が研究テーマを読んでその詳細を理解できる訳もないが,理学部化学科のイメージからは思いもよらなかったその内容を非常に新鮮に感じたことを覚えている.今でこそ"強い場"は馴染みのある術語になっているが,当時としてはかなり時代を先取りされたテーマを選んでおられたことが分かる.議論をされるときのあの少し猫背で,淡々とした物腰からは想像も出来ない一面ではないだろうか.鬼仏表ではいつも「ど仏」にランクされる藤村先生である.口さがない学生は,それでも,どこかしら感づいている様であって,そのコメント欄には「言っていることの一割も分からないが,国際的には非常に著名な先生らしく云々」(念のため書いておくが,鬼仏表への投稿者の理解度が低いのである)と書かれていたことも思い出す.

 先生はことのほか科学的な討論がお好きである.挑発的なことを言って議論を活性化しようなどとは決してなされないが,簡単な関係式であっても,その背後にある様々な解釈の仕方を探されるとか,どこまでが厳密でどこからが曖昧さを含み得るのか,そして,何が面白くて,確実に言える新しいことは何であるのか,といったことを議論を通して探り出していくのである.埒の明かない私共学生を相手に,先生独特の粘り腰で議論を進められていくのであるが,時に先生は,結論を得ることを目的としてではなく,科学的な事柄についての議論そのものを楽しんでおられる様子でもあった.それでも今の学生さんたちには想像も出来ないことかもしれないが,先生の"沸騰"は時として物凄いものがあった.私なぞは内心「瞬間湯沸かし」と感じたものであるが,いい加減な事の成り行きを許さないお心も持ち合わせておられる.数年前に,故中島威先生と藤村先生との共著「現代量子化学の基礎」という控えめなタイトルの教科書が出版されているが,私はその教科書を読むとき,かつての藤村先生との議論の雰囲気の片鱗がそこかしこにあるような気がしてならない.

 藤村先生がご退職されることなど,もっとずっと後のことであると何故か信じていたのであるが,今年五月,先生のご退職記念シンポジウムが開催され,私も出席させて頂いた.講演されたとき,先生の猫背が少し伸びたのではないかと感じられたことが印象に残っている.

 先生が披瀝されたように,光科学分野での藤村先生の益々のご活躍とご健康とを願い,一弟子からの餞の文としたい.

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「今」に対する集中力


慶應義塾大学理工学部 菅原 道彦


 私は東北大学理学部に在籍した1988年から1993年までの6年間、博士課程前期・後期を通して藤村先生に指導していただきました。先生はそれほど研究姿勢や研究生活について直接的・具体的に指導するタイプではなかったように思います。そのため、学生だった私は自由に研究をやらせていただいたということには大変感謝しておりましたが、特別に藤村先生から学んだといえる確固としたものをもって研究室を卒業したという印象はあまりありませんでした。しかし、先生の下を離れて十数年経ち、折に触れて「藤村先生からもっと学んでおけばよかったと感じること」がございますので、この場をお借りしてそのことついて触れてみたいと思います。

 理論化学という学問は、初学者には結構敷居の高い学問で私も修士の頃はセミナーの時の配布資料にびっしり並ぶ数式に心理的に圧倒されておりました。しかし、それにも次第に慣れてきて最初は全くわからなかった学会での他人の発表も多少なりとも理解できるようになって来た博士課程の頃、自分の研究についても先を読めるつもりになって「これをやっても意味ない」、「あっちはモノにならない」の様な妙なあきらめ癖が顔を出していたように思います。そのような時、藤村先生は「とにかくやってみる」ということを前面に押し出して指導してくれたのですが、なにかと失敗して格好悪いところを見せたくない年頃の自分は、先生のその様な姿勢があまりスマートに見えていませんでした。しかし、曲りなりにも研究の経験を積むと、やってみなければ始まらない面があるということもわかってきます。そして、いざ自分もそうしようと思った時「結果を先読みせずに、目の前のすべきことに集中する」ことが、それほど簡単なことではないことがわかってきました。

 話は変わりますが、私は社会人になってからテニスを始め、かれこれ10年以上趣味としては比較的真剣にプレーしているのですが、試合をすると色々と雑念に邪魔されます。大事なポイントでサーブを打つ前などに、本当は「どこにサーブを打つか」を考えなければいけない場面で「このポイントを失ったら負けそうだなあ」という様な考えがよぎるなどです。試合を重ねると、いかに「考えてもしかたがないこと(例えば、未来の結果)を考えない」で、「具体的に、行動に移せることだけを考える」かが大事であることがわかってきます。残念ながら、いまだに自分はこの境地に達することができていませんが、今思うと当時はスマートに見えていなかった藤村先生の研究姿勢、大げさに言うと人生に対する姿勢こそが、こういうことを自然に出来ている姿だったのかなあと思う次第です。極論になりますが、研究でもテニスでも、はたまた人生においても、先のこと(特にネガティブな結果)を予想したりするのは、意外と今しなければならない大事なことに集中できない一因だったりするのに気づかされます。趣味のスポーツと研究、ましてや人生などを同列に語るのはおこがましいかもしれませんが、藤村先生の研究、いや人生に対する少し泥臭くも前向きな姿勢、すなわち『"今"しなければいけないことに対する集中力』をもっと学んでおくべきだったなあと思っております。ご退職されても藤村先生はきっと「今、この瞬間にすべきことに集中しておられるのだろうなあ」と思いながら、自分も人生の様々な場面で少しでもその姿勢に近づけるよう日々精進しようと思っている次第です。


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