山本嘉則先生御退職特集


御退職寄稿 「何のための研究か?」 東北大学副学長・教授 山本 嘉則

「山本嘉則教授の御定年に寄せて」 学習院大学理学部 中村浩之

「40代前半頃の山本先生」 住友化学 西井真二


何のための研究か?


東北大学副学長・教授 山本 嘉則


山本先生


 大学に奉職するものは自ら落ち着いて考える前に、自動的にというか自然にというか、まず研究をやることを自ら(あるいは外的要因で強制的に)選んで、研究と教育を主務とした毎日を送ります。それでは一体“何のために研究をする”のでしょうか?

 この種の疑問は、もっと基本的には何のために自分は地球上に存在しているのか?などという質問からよく始まるものです。これは哲学の問題でありおよそ学問らしきものが始まって以来永遠のテーマであり小生にはそれを取り扱う能力も力量もありません。もう少しわかりやすい話ですと、“何のために大学は存在するのでしょうか?”というのがあります。これは、大げさに云うと大学とは“人類が今まで築いてきた文明・文化の維持・発展のための装置”と云えるでしょう。そのためにフレッシュな感受性・柔軟な頭脳・健全な身体をもった若い年代に教育をし、その時代の文明・文化の継承と、次代に向けてのさらなる発展を託すための機関です。

 それでは我々は“何のために研究する”のでしょうか?色々な動機づけや目的があり個々の人によって勿論異なります。(1)自分の対象としている研究課題に強い好奇心がありそれを続けることが面白くてしようがない。何に役立つとか何のための研究とか、そんなことは考えたくもない。とにかく、この研究さえしていれば自分は満足である(curiosity driven research)。(2)ターゲットがあり研究の目的といきつく先が明確でありそれを達成すれば社会的インパクトも大きく、自分も有名になり、地位や名誉も得られる。世界で最初の…達成とか、功名心にかられる部分が多い(target oriented research)。あるいは(3)上記2つのモチベーションの混合型というか、両方の駆動力で研究を行う人もいるでしょう。(1)はどちらかというと理学部型で、高校生などにはひびきの良いpuritanism的で日本人には受け入れられやすい動機でしょう。(2)は、もう少し実学的であり、いわゆる役に立つ研究などがこの範ちゅうに入りますが、声高に名声とか地位とか求める動機によってdrivenされているというと、日本では歓迎されにくい面もあります。しかし私自身は、若者はもっと野心をもった方が良いと思います。(名声とか地位のための研究と云ってもそれを受け入れる日本になってほしい気がします。)Boys be ambitiousを「少年よ大志を抱け」と訳したのは実に日本人向けによく訳したものだと思います。私なりに解釈すると、米国人の感じでは、日本人の内向きなひきこもり的傾向を捨て野心的に取り組むように云ったのではないかと思います。さて話をもどしますと私自身は(3)のタイプが理想的と思います。時代の流れは、学術本位・興味本位・自分本位の研究から社会のための研究に、軸足を移しつつあります。余りにも実学本位で、すぐ役に立つ研究、研究費をかせげる研究、企業が注目する研究ばかりを追求するのは大学のやるべきことではありません。これは上で述べた“何のための大学か”から考えて明白です。しかし、自分の興味のみで、その研究の社会的意味や研究者に対して社会から何を付託されているかを考えずに研究至上主義ではやっていけない時代になっています。その意味で理学部は今の時代は、かなりきびしい状況に置かれつつあると云えます。薬学部、医学部、農学部、…などは研究対象とする分野・対象物・目的が明確にその学部名に示されており、その目的にそって研究を進め成果を社会に直接還元でき、その目的とする文明を継承・発展させる人材を排出すれば教員の主務は達成されたことになります。理学部は、物事の理・自然界の理を解明する学術を押し進めることに存在意義があるとすると、必ずしも社会への実用面でのreturnが直接期待できない分野もあるでしょう。工学部は、機械とか電気とか土木とかがすぐ頭に浮かびますが、“Engineering”は“巧みに処理する”という意味があり、本来物ごとの理が判明したことに基づきそれを踏まえて、うまく役立つ様に社会に還元できる様にする処理能力を身につける人材を送り出す分野です。従って、時代の流れは工学部に有利に働いています。

 そこで理学部の若い人々には、理といえども研究の持つ社会との関連性や社会に対する意味合いを常に考えつつ研究課題を設定して頂きたく思います。私の若い時は、当時の先生に「自分の好きな事・興味ある事のみを研究すれば良い。何に役立つか?社会との関連はどうか?などは企業がやることだ。」と云われてきました。この考えは、大学で研究する上では楽です。また、curiosity driven researchからノーベル賞受賞研究が多く出ていることも事実です。しかし、大掛かりな国費を使って研究する場合は、理といえども、社会との関連を見すえた研究を行い、社会に対して説明責任を果たせないと、今後は立ち行かなくなるかもしれません。若い人には、何のための研究かを見すえて頂きたく、定年に際して説教っぽいことを書いてしまいました。


山本嘉則教授の御定年に寄せて


学習院大学理学部 中村 浩之


 私は平成2年4月、ちょうど山本先生が東北大に赴任されて5年目に先生の研究室に配属になりました。何故か私の学年のときだけ山本研は配属定員が割れていて、いわゆる「講座配属じゃんけん」の負け組みとして行き場のなくなった私は「山本先生は確か関西弁だった」という情報を元に研究室を選びました。そして講座配属が決まり山本先生に挨拶に行った時には、「じゃんけんで負けて来ました」と大変失礼な言葉を先生に言うような出来の悪い学生だったにもかかわらず、山本先生は「これもなんかの縁やからまあよろしくやろうや!」と温かく受け入れてくれました。そのときのお言葉「有機化学は作ってなんぼのもんや!」は、今でも心に刻んでおります。当時、山本研究室は研究費もさほど潤沢ではなく使用した溶媒も回収してリサイクルしていました。一方、同じ5階にある隣の桜井研究室(今の吉良研究室)のセミナー室はじゅうたん張りで研究費も潤沢でした。今から思えばこれが山本先生にとっては良い刺激となり、その後の発展に繋がったのだろうと思います。

 その後、私は博士課程後期課程2年の終わりに助手に採用していただき、平成14年3月までの12年間を山本研究室で研究生活を送らせて頂きました。この間、山本先生が研究を発展させ現在のように日本を代表する研究室を確立されるまでの経緯を見ることが出来たことは私にとってはこの上ない貴重な経験になりました。一番良い時期に講座配属できたことに自分の運の良さ(じゃんけんで負けたこと)を感じます。また、助手になってからは研究の進め方や実験結果のとらまえ方はもちろんのこと、いわゆる礼儀・作法など社会人として大切なことも学び、それに外れるものなら「お前みたいのチンピラが!」と本当に怒鳴られたことを覚えています。私にとっては、山本先生は上司やボスというより“育ての親”でして、本当にいい先生にめぐり合えた私は幸せです。

 定年後も4月からは分子変換学寄附講座の教授として研究を続けられると同時に東北大学副学長・日本化学会副会長にも就任され、東北大学だけでなく日本の化学のために益々ご尽力いただけることは私ども門下生にとっては大変うれしいことです。また紫綬褒章を受章され本当におめでとうございます。山本先生の益々のご発展をお祈り申し上げます。


40代前半頃の山本先生


住友化学 西井 真二 (平成元年博士卒)


 山本先生、この度はご退職誠におめでとうございます。私が先生に初めてお会いしたのは昭和58年春の京都でした。先生はちょうど40歳だったことになります。当時先生は京都大学理学部有機化学研究室(丸山教授)の助教授をされていました。ブラウン研留学、進歩賞受賞という輝かしい履歴を持って京大に迎えられ、すでに有機金属試薬(特に有機銅・ルイス酸複合試薬)や不斉誘導などで数々の業績を挙げられておられました。私はそんな時に4回生として研究室に配属され、テーマ指導教官として先生から直接指導を受ける機会に恵まれました。そのころの先生はわれわれ学生の指導、化学教室の運営、学会関係の仕事(すでに論文のレフェリーもされていたのでは)などで非常に忙しい毎日を送っておられ、傍目にもなかなかご自分の研究を進める時間がないように見えました。しかし月に1回廻ってくる研究進捗報告会ではいつも新しいネタを披露され、それらは旬日を経ずに論文として発表されていきました。日々の実験に追われて勉強もおぼつかない身としてはとても不思議でしたが、修士2年のとき同じ実験室になり(丸山研の実験室は一室3〜4人の小部屋で、毎年部屋替えがありました)、先生と朝から晩まで一緒に過ごすようになってその秘密を目の当たりにすることが出来ました。一言でいうと「非常に要領のよい努力家」です。夕方近くまで外出されていたかと思うと戻ってきてパンパンと4つばかり実験を仕掛け、翌朝またパッと後処理して、ちょっと結果解析したかと思ったらまた外出し、また戻ってきて次の実験、というパターンでした。実験の数は朝から夜遅くまで実験している学生のほうがずっと多いのですが、先生の実験はまさにピンポイントというか、無駄な実験が非常に少なかったようです。今思うと先生は忙しい用務の中でもいろいろな情報を集め、如何にすれば最少の努力で最大の結果を生むかを常に考え実践されていたのです。

 仙台に教授として来られてからはご自分で実験されることはなくなりましたが、その姿勢はずっと続いて学生への指導にも表れていたように思います。先生はただ実験数や研究室にいる時間の長さだけを決して評価されていませんでした。といって実験が少なくても結果を出せばよい、ということとも違います。先生の座右の銘の一つである「学問に王道なし」とは、成果を挙げるためには質、量とも追求せよという意もあるのかなと勝手に推測しております。

 先生はこれからも分子変換学寄附講座で研究の傍ら後進の指導を続けられるとのことで、ますますご活躍されるものと存じます。心から応援しております。また不肖の弟子としては少しでも先生を見習い世の中の役に立てるよう改めて自分を叱咤しております。


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