追悼


「西尾悟先生の逝去を悼む」 福村裕史

「西尾悟先生 追悼」 吉留雅仁

「國分泱先生と國分効果について」 石川 満

「國分先生の思い出」 浜井三洋

「國分先生と”けい光”の思い出」 小林俊介

「国分先生の思い出」 村田重夫

「國分先生を偲んで」 山本貞明

「國分泱先生を偲んで」 渡會 仁

「大空瞭君の思い出」 石川 裕二

「大空君の魂は不滅!」 金田 裕和


西尾悟先生の逝去を悼む


福村 裕史


 化学教室(有機物理化学研究室)で2002年度と2003年度の2年間、助教授をされた西尾悟先生(特別会員)が、去る2006年10月15日に永眠されました。謹んで哀悼の意を表したいと思います。

 西尾悟先生は、レーザーアブレーションによる新物質の創製、とりわけカーボンナノベルトの合成に意欲を燃やしていました。これは、まだ誰も見たことのない化合物ですが、電気伝導性と芳香族化合物に特有の化学反応性の二つを兼ね備えた新物質の開発を夢見ていたようです。三重大学在職中に、ペリレン誘導体を金属コバルト粉末と共にレーザーアブレーションすると、導電性の化合物が生成することを見出していました。当化学教室に着任後、当時学部学生の金沢千尋君と共に実験装置を早々と組み上げ、顕微ラマンによって生成物の確認を行いました。使用できるレーザーがYAGレーザーであったことが幸いし、コバルト以外の数種の金属を用いてもペリレン骨格とCH結合を保存しかつ導電性の化合物が生成することを見出し、その反応メカニズムについても興味深い知見を得ました。この研究は、西尾悟先生が化学教室を去られた後も発展し、金沢千尋君の修士論文として結実しています。同じペリレン誘導体を懸濁液中でレーザー照射しナノ粒子をつくるという研究は、当時学部学生の中森太郎君が担当し、これも興味深く中身の濃い卒業論文になりました。また、走査型トンネル顕微鏡を用いて自己組織化単分子膜の研究を行っていた、吉留雅仁君、伊井大三君、松田浩君の指導にもあたり、短い滞在期間にもかかわらず数編の論文に仕上がっています。

 ナノスケール化学における研究はこれから飛躍的に伸びると期待していた矢先でしたが、最近の定員削減を忠実にこなすという立場から、泣く泣く立命館大学の教員公募に応募してもらいました。才能に溢れている上に温厚な人柄で、どんな仕事も良くこなし、加えてフルートの名手でもあり、どんな研究室でも居てもらいたいというタイプの貴重な人材でしたので、直ちに教授として採用されました。もともと出身が関西で、ご両親やご親族も近隣に住んでいるということでしたので、本人やご家族の生活にとっては良い環境と思いました。転任先では優れた研究教育者として教職員から期待され、その親しみやすいお人柄から学生にも広く慕われていたと聞きます。

 2006年4月に京都で開かれたIUPAC光化学シンポジウムの懇親会では、得意のフルートをいつもどおり優雅にかつ力強く演奏していました。その後、9月の仙台で開かれた光化学討論会にも顔を出し、仙台だから挨拶に来ましたと話していたのを覚えています。まだまだ、あと10年ぐらいは頑張りますよと笑顔を見せていました。思えば、そのころはかなり病状も進行し、相当な無理をしていたのでしょう。才能のある人は夭折するといわれますが、これほど悲痛なことはありません。最後まで全力で駆け抜けた西尾悟先生のご冥福を心からお祈りします。


西尾悟先生 追悼


福村研 吉留 雅仁


 西尾先生は、私が大学院に進学したその年に福村研に助教授として赴任していらっしゃいました。最初にお目にかかった時に、非常に穏やかな表情の中にも、研究に対する情熱や覇気を秘めた目や話し方をされる先生だなという印象を受けたことを今でも覚えています。先生は、その最初の印象通りの方で、福村研に在籍されていた2年間、私が壁に突き当たった時も、失敗をしてしまった時も、決して声を荒げることもなく、それでいて前向きな気持ちにしてくれるような独特の語り口で、熱心に指導して頂きました。

 研究以外で西尾先生のことを語る上ではずせないものは、フルートだと思います。修士1年の夏に研究室でキャンプに行き、その場で初めて演奏を拝聴する機会がありました。それ以前から、プロ並みの腕前とは伺っていましたが、実際聴いてみて、先生のお人柄を表したような、力強くも透明感のある音色に素人ながら聞き入ってしまいました。その後も、何度か演奏に立ち会う機会がありましたが、その度に新鮮な感動を覚えることが出来ました。

 先生が、立命館大学に教授として移られた後も、学会などでお目にかかると、いつも“どう、調子は?”と声をかけ気にかけてくださいました。最後にお目にかかったのも京都であった学会で、いつものように声をかけて頂きました。まさか、その半年後にお亡くなりになるとは夢にも思わず、“たまには滋賀の方にも遊びに来てよ”という言葉に“はい、ありがとうございます”と答えてお別れしたのが最後になってしまいました。結局、先生がご存命のうちに訪ねることが出来なかったことが心残りになっています。

 西尾先生の逝去に対して哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈りします。


國分泱先生と國分効果について


平成18年12月11日 石川 満


 國分泱先生の訃報に接し、謹んでお悔やみ申上げます。私は化学科を昭和54年に卒業し、引き続き修士課程を昭和56年、そして博士課程を昭和59年に修了しました。その後、転職を経て現在、産業技術総合研究所に勤務しています。化学教室在籍中は一貫して理論化学研究室で國分先生の指導の下、生理活性を示す有機化合物の光励起緩和過程を解明するための基礎的な研究に従事していました。

 先生から直接あるいは間接に学んだ本質的なことをひとつ挙げるとすれば、それは「自主独立」の精神かもしれません。研究室に在籍中は放任に近い環境で、むしろ学生同士で実験結果の議論、またテキストの輪読、文献の読破等を自主的にこなしていたように思います。放任に近いとは云え、学生の自主的な活動を支える基本的な環境、すなわち装置類は先生のご尽力により当時の水準としては充実していたように思います。このような環境で鍛え上げた知識と経験そして技術が、現在の私に絶大なる基礎を与えていることは疑いの余地がありません。これが表題にある「國分効果」の所以です。

 先生にまつわる思い出として、教室内におけるハダシでサンダル履きに象徴される純真無垢かつ旧制高校を彷彿とさせるスタイルが忘れられません。酒席における旧制二高関係の応援歌の放吟もまたしかり。研究室の内部で直に接することで、初めて目の当たりにできた先生の真のお姿だったと今改めて偲んでいるところです。

 先生が亡くなったのは7月23日でした。私は翌日からその後2週間ばかりの間、断続的に続いた、自分の今後の身上にとって極めて重要な成果発表および面接といった試練の真っ只中にいました。先生は私の自主独立の活動を静かに見守ってくれたのかもしれません。


國分先生の思い出


秋田大学教育文化学部 浜井三洋


 國分泱先生の訃報を知り、寂しい想いで一杯です。私は昭和43年に4年生になって小泉正夫先生の研究室に配属になり、卒論はESRでメチレンブルーのラジカルについて調べることになったので、4年生の時は國分先生から直接教えていただくことはありませんでした。

 今からは想像もできませんが、当時は学生運動が盛んでした。その頃すでに東大では大学紛争的な動きがあったような気がします。東北大学でもそのような雰囲気が広がってきて、4年生の終わり頃か修士1年の初め頃だと思いますが、研究室で学生と教官との話し合いがもたれたときに、研究テーマを教官が決めて学生へ押し付けるのはけしからんというような意見を言う先輩がいました。それで、研究テーマを教官がいくつか出してその中から選ぶということになりました。そのため、國分先生がいくつかテーマを出されたのですが、私は元々反応や発光に興味があり、小泉研への配属を希望したこともあって、その中から蛍光偏光に関するテーマを選ぶことにしました。このような研究テーマの設定方法はその時だけでしたので、もし、大学紛争がなく國分先生がテーマを出さなければ、私の研究分野などは今とは全く異なっていたと思います。このような事情で國分先生の下で研究をすることになりました。國分先生の学生指導は一言で言えば、放任主義、別の見方をすれば学生の自主性にまかせるというものでした。したがって、本当に自由に研究をさせていただいたという記憶があります。

 院生の頃は國分先生と同じ部屋に数人の院生・学生と同居していました。当時はまだ電卓もなく、ましてやパソコンなどもない時代だったので面倒な計算は手回しの計算機を使っていました。手回しの計算機は使っているときはガチャガチャチーンと音が大変うるさいのですが、國分先生からはうるさいと言われたことはありませんでした。今から思うと、ずいぶんご迷惑をかけたのではないかと申し訳なく思っています。大学院の博士課程に進学してからは、しばらくラジカルの蛍光を調べていたのですが、偶然ホトクロミズムを見つけたことと反応をやってみたいと思っていたこともあって、テーマをホトクロミズムに変えました。指導教官からすれば、自分勝手に実験をしている学生だったと今にして思いますが、國分先生から文句を言われたことはありませんでした。その点は今でも感謝しております。國分先生のお陰でなんとか一人で研究をしていく基礎ができたのではないかと思っています。

 大学院を終えてから宮崎に長くいましたが、その間に宮崎大学で光化学討論会を開催したことがありました。そのときには学生さんなどと一緒にわざわざ私のアパートに寄っていただいたことを懐かしく思い出します。

 最後になりましたが、國分先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


國分先生と”けい光”の思い出


昭和43年卒業 小林俊介


 私は3年の学生実験で、助手(当時)の新妻先生指導の光増感重合反応を経験し、これに(少々)惹かれて理論化学講座のドアをノックしました。そこで國分先生に「けい光(と書かなくてはいけない!)をプローブとして、励起状態での分子内プロトン移動を調べる」をテーマとしていただきました。けい光の測定をすると分子種により発光強度が大きく変わります。先生に理由をお聞きしたところ「それがわかれば(仕事は)おしまいだ」。

 それ以来、紆余曲折はありましたが、定年になるまで有機物発光の周りをウロウロして過ごしてきました。キッカケであった光化学反応は、光を照射すると系が変化してしまい(当たり前のことですが)、たいへん(私にとって)難しいので、もっぱら光を吸収し、それのエネルギーを光として出して元に戻る系しか手が出ませんでした。

 さいわいにも、塀の内側に落ちることもなく数十年間仕事を続けることができ、固体でも室温で発光量子収量がほとんど1である有機結晶にめぐり合い、さらに(光励起および電流注入)による固体発光の絶対収量測定装置の市販品作製にかかわることが出来ました。國分先生に報告する機会は失われてしまいましたが、多分、先生からのご返事は「そんなことはあたりまえだ」でしょうか。装置を作成した分光計器の技術者に渡した参考書は、実験化学講座(続11)に國分先生が書かれた「けい光スペクトル」でした。


国分先生の思い出


村田 重夫 (昭和42年卒)


 国分先生が7月に亡くなられたと聞き、大変驚きました。今年(2006年)の年賀状はいつもどおりいただいたので、お元気だと思っていたのですが・・・。

 私が先生に初めてお会いしたのは、学部の4年のときだったと思います。まだ先生が東北大に移られる前のことです。ある日小泉先生が実験室に来られ、「北大の国分さんだよ」と、いっしょに入って来られた方を私に紹介されました。その当時の先生は、私が伝え聞いて想像していたよりもずっとお若く見えたため、つい「この方がですか」と言ってしまい、後で冷や汗をかきました。先生はにこにこと笑っておられました。

 先生が東北大に移られたのはその次の年度からだったと思います。私は修士課程までは有機化合物の蛍光の消光機構を研究しました。蛍光を扱うということで国分先生からもその基礎的なことや測定法などについてセミナーや実地訓練などを通じていろいろ教えていただきました。私にとってはそれまで小泉研で教わってきたこととは一味違う、新鮮なものでした。博士課程に入ったとき先生から「アズレン誘導体の蛍光がおもしろいからやってみないか」と言われました。これは大きなテーマでどんな風に進めるかも問題でしたが、とにかくやることになりました。戸田敬先生にも大変お世話になりました。しばらくは結果も出ずご心配をかけましたが、幸い3年目にちょっとしたきっかけでうまくいくようになり、一応期待した成果を得ることができました。今思い出してみると、この研究の内容は私自身の趣味(?)にもよく合ったもので、このようなテーマを与えてくださった先生に感謝しています。

 仙台を離れてからは先生にお会いする機会も少なくなりました。先生の定年の5年ほど前から、私の仕事がまた光化学に戻ったこともあって学会で時々お会いするようになりました。それまであまりお会いしなかったからでしょうが、私には先生が急に年をとられたように感じられました。最後にお会いしたのは数年前に松島で行われた小泉研の同窓会のときでした。ご冥福をお祈りします。


國分先生を偲んで


山本 貞明


 私の人生の進路に大きく影響を持った國分先生の突然の訃報にふれ、大きな寂しさを感じています。

 私が二年生か三年生の頃だったと思います。片平の階段教室の真ん中、少し上の所にお座りになっていた、その後よくお見かけすることになったワイシャツの袖をまくった颯爽としたお姿が、先生との初めての出会いでした。大学紛争華々しい時で、それに関する教室会議だったのか、何かの講演会だったのか、記憶はあやふやになっているのですが、将来、どこの講座に進むのかを考えていた頃で、「國分先生は蛍光寿命の測定では、世界の第一人者」と友人から聞いていて、それで、初めて目にした先生のお姿だけは鮮明に印象に残っているのかもしれません。学年が上るに従い、分子というものが、だんだん身近に感じられてきたその時期に、颯爽とした、その分野の第一人者である國分先生は私の憧れの研究者となったのです。

 理論化学講座に配属になり、以来、研究のご指導いただきました。先生には物理化学の研究で必須の装置開発や、ともすれば誤った結果を導きかねない蛍光測定など基本から教えていただきました。蛍光寿命測定の必要性から高速時間分解検出器の製作を先生のご指導を受けながら行いましたが、まさに”On the Job Training”で このときパルス回路や遅延回路など装置つくりや装置作動原理の理解にとって必須の知識、それと物理化学研究の進め方など熱心に教えていただきました。今、当時の先生と同じ立場に立ち、大学で学生の指導をしておりますが、何もわからない学生達に、よくここまで忍耐強く教えてくださったと改めて感謝しております。

 先生ご自身が学生の頃、ラジオをはじめとする電気製品の修理や音響関連のセッテングなどのアルバイトを一手に引き受けていたとよく話されていらっしゃいました。電子回路の知識のない駆け出しの私にとっては大きな驚きでもあり、羨望の的でもありました。今でこそ試料を入れてボタンを押すだけで、データ取得から解析まで簡単に行えますが、先生は時代を先取りして早くからその取り組みを試みられていました。自動化された装置を使って測定をするとき、ふと先生の先見性を垣間見る思いがします。

 その当時は下戸で先生のお好きなお酒はお付き合いできませんでしたが、登山やスキーの話題では、若かりし頃のお話を聞かせてくださり、大いに盛り上がったことを昨日のように思いおこされます。また、菊池先生や岩永さんを交えた先生との論文作成作業は、厳しい指摘を受けながらも、研究者気取りにしてくれる楽しい時間でした。前職場の上司から「研究は明るく、楽しく、元気に」と教えられましたが、今、振り返ってみると、先生のもとで、まさにそれを経験させて貰っていたような気がします。

 また、先生のおかげで、憧れのドイツ留学も実現しました。ミネソタ大学留学時にお知り合いになられた、マックスプランク研究所のグレルマン先生が國分先生を訪ね、仙台を訪問されたのが私のドイツ留学のきっかけとなりました。異文化との接触は、若い自分の精神形成にとって強烈なものでした。物事のとらえ方、考え方、価値観などなど、ドイツ留学は現在の自分の中に大きな影響を残しています。

 現在、北海道大学に在籍し、國分先生が勤務されていた応電研(現電子研)の先生と、一緒に仕事をしております。研究棟にたたずむ時、不思議な縁を感じるとともに、先生との交流が走馬燈のように駆け巡ります。そしてそれはもはや戻ることのないことと思うとき大きな悲しみが込み上げてきます。

 私の精神や人格形成そして人生の進路に、直接的・間接的に大きく影響を与えてくださった國分先生。尽きぬ感謝の心を捧げつつ、ご冥福をお祈りいたします。


國分 泱先生を偲んで


渡會 仁


 國分先生のご逝去の報に接して以来、切ない思いが時間を逆走している。

 昭和42年であったろうか、片平の化学教室の大講義室で、学生を前にして酔った勢いでエールを送る先生がおられた。先生は学生が大好きであった。私は、昭和43年に小泉正夫先生の理論化学研究室に配属となり、臼井先生に最初のテーマをいただいたが、先生は間もなくアメリカにご出発されたので、その後、國分先生にいただいたテーマで卒論研究を進めることとなった。フラッシュフォトリシスを用いるT-T吸収と蛍光の時間変化の同時測定により、β―ナフトールのピリジンとトリエチルアミンによる消光機構を解明する研究であった。T-T吸収の変化量が少ないので、先生はお気に入りのテクトロニクスのオシロスコープに前置増幅器を入れることで、極めて高感度なT-T吸収測定を実現された。当時DCの菊地公一先生に操作を教わりながら実験を行った。國分先生の我々学生へのメッセージは、大変明解であった。北大で製作された蛍光寿命計がご自慢の装置であった。これだけの装置を持つ研究室は国際的にもそうはない、時間軸のない研究はサイエンスではないと我々を激励された。あるとき、フィルターの性能を安易に質問したところ、吸収スペクトルを測ればわかるだろうと言われて甚く反省したことがある。先生は、講義の日は必ずネクタイを締めてこられた。当時すでに大学院の講義で、Langmuir-Blodgett膜の作成法を黒板一杯に書いて、単分子膜レベルの分光測定ができることを熱心に講義して下さったことは、特に印象的である。國分先生は、研究の評価においては厳しい先生であったが、研究室の学生に対しては何事も大目に見て下さった。お昼休みには学生とバレーボールやバドミントンに興じられた。何人かで、研究室やご自宅で、先生のお酒にお付き合いをさせていただくこともあった。話題は、アメリカンフットボールの美学やスキーや山登りのお話であった。一度、夏休みに一切経から安達太良山にかけての登山にご一緒させていただいたことがある。奥様とお嬢様もご一緒で、大変楽しい思い出であった。大学紛争の時代は、先生にとっては大変悲しい時代であったようである。信頼していた学生との絆が踏みにじられ、大変心を痛めておられたと思う。私は、昭和46年に修士を修了させていただいたが、論文の題目は「励起β−ナフトールの失活におよぼすアミンの影響」であった。國分先生に原稿を見ていただいた。β―ナフトールの三重項状態とピリジンとの間で水素原子移動が起こることを結論とした。この研究は、昭和46年3月の日本化学会の春の年会(阪大)で初めて発表させていただいたが、発表終了時間が正確であったことを先生にお褒めいただいたことを思い出す。私はその後、小泉先生と國分先生のご推薦をいただき、分析化学の分野で仕事をさせていただくこととなった。國分先生に教えを受けたことは、その後も幾度と無く思い返し、折々の研究の節目に指針とさせていただいたことを思うと、改めて受けたご恩の深さを思い知る次第である。本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


大空 瞭 君の思い出


石川 裕二(昭和46年卒)


 去る平成18年(2006年)1月16日、三島市で、大空瞭君が癌のため永眠されました。

 私としては、このことを、いまだに実感できないでいます。

 私達は、昭和42年(1967年)に、仙台で初めて出会いました。大空(以下、君を省略します)は大阪から、私は東京から、親元からはじめて離れ、学生生活をはじめたのでした。

 私達を結びつけたきっかけは、アイスホッケー部でした。私は「大学では、今まで一度もやったことのない事をやってみたい」という、青年らしい単純素朴な気持ちから、無謀にもこの体育会系クラブに入部したのですが、そこで同じ学科所属の大空に出会ったのでした。

 背の高いやせ気味の男で、目の表情が特にやさしい、美男子でした。

 彼は明るく、ときに豪快な行動に出ますが、内面は繊細で哲学的/宗教的な傾向がありました。何か共鳴するところがあったのでしょう、私達は急速に親しくなっていきました。愚かな話をしたり、熱くなって議論したり、本の読後感想を交換したり、彼の下宿に転がり込んで遅くまで一緒に過ごした日々をなつかしく思い出します。大空はさわやかな男で、今の私の辛口基準から考えても、実に好青年でした。いやな思い出がひとつもないのです。

 時代はまさに大学紛争のまっただ中でした。

 マスコミは、私達の世代を一括りにして、「全共闘世代」と呼び、その頃のすべての学生がいわゆる新左翼の支持者だったかのように書きますが、それは間違いです。当時の仙台の学生は、ひとりひとり別々に考え、それぞれ独自に行動したと思います。関心を寄せなかったもの、批判的だったもの、暴力に走ったもの、大きな傷を負ったもの、自殺してしまった痛ましい人もいました。

 当時、大空も私もそれなりに考え行動しましたが、暴力を振ったことはありませんでした。ただ、特に私は、傲慢で愚かであったことは確かなことで、唯物論や共産主義に影響されました。大空がこれに関連して、「人間がすべて○○君のように善良であれば、共産主義はうまくゆくだろう」と批評したことが忘れられません。「理想社会が作れるほど、人間は善くないよ」ということだ思います。司馬遼太郎を教えてくれたのも彼でした。

 ユーブング(実験実習)の頃にも、忘れられない思い出があります。スペクトル測定の実習の時でした。撮影したネガのスペクトル線が不鮮明なため、線の間隔が測れず、私達は立ち往生していました。その時、大空は、おぼろげな線の中央部に大胆にもナイフで人工的に直線を引き、その間隔を測ったのです。そして、正確な言葉は覚えていませんが、「科学は数値化することから始まる。数値にできない時は、測れるように、無理やりにでも工夫するのだ」という意味の事を言ったのでした。社会に出た後、私は仕事上の困難に直面するたびに、この放胆にして実際的な実例を何度も思い出し、励まされました。

 教養部を終わる頃、私は腰痛などを理由にして、アイスホッケーをやめてしまいました。彼はそのことを一言も非難せず、4年生の最後まで、信頼されるゴールキーパーとして、部活を継続しました。

 彼は優秀な成績で大学を卒業後、量子化学の講座に進学し、その後富士通に就職しました。一方、私は田宮研で生化学を勉強したものの、なかなか良い就職口がありませんでした。私は大学卒業時早くに結婚したことから、結局、職欲しさに千葉大学医学部の助手になり、形態学(解剖学)という、生物学の基本から勉強し直すことになりました。そして仙台を離れ、化学を離れ、この世と苦闘しているうちに、大空とはいつのまにか疎遠になってしまいました。

 思い返してみると、大空と私は、あの頃一体何を話していたのでしょうか?結局、自分のよって立つべき規範を求めて、「人間とは何か」ということを探っていたのだと思います。ご存知のように、中国の哲学には「性善説」と「性悪説」の2つの正反対の立論があります。当然のことですが、結論は簡単には出ないため、これはその後の私達2人の宿題になったのでした。

 私自身の答えは、あれから約40年生きた後、ようやく見えてきたように思えます。人知を超えたものによって、人間は、大空のように、元来善き者として造られたこと。そして、現実には人間は悪くなること。しかし、何回でも立ち直ることが可能なこと。

 これに対する彼の応答を是非聞きたいものです。

 大空との交友は、私達の青年期に神様が恵んで下さった、大きな喜びでした。私もいつか主の前に眠りますが,その時再び彼に会うことができるように、つよく願っています。


大空君の魂は不滅!


2007年1月25日 金田 裕和


 大空瞭君が他界されたのは2006年1月16日だったと記憶している。闘病生活をしていることは知っていたので東京出張の折に時々様子を見に三島を訪れていたが、訪問のたびに大空君の消耗は進んでいた。最後になってしまった訪問(他界される2,3日前?)は大空君の事が妙に気になり敢えて松本から三島に出向いた。気丈に振舞おうとする姿が痛ましく、私が最後に聞いた大空君の言葉は「ありがとう!」であった。ゆっくりさせてもらうつもりで訪問したのだが、恥ずかしながら涙が止まらずあわてて家族に別れを告げ、電車に乗ったが涙は止まらなかった。

 大空君とは大学1年の時から同じクラスだったが、懇意に付き合い出したのが3年の化学実験グループ(ユーブング1班)で一緒になってから。大学紛争でクラスの仲間が分裂し敵味方にわかれて戦った時期ではあるが、妙に仲のいいグループで三上御夫妻を中心に今も時々集まって懇親を深めている。

 高校時代の彼は野球をやっており、当時の近鉄の豪腕エース「鈴木啓二投手」と対戦し「かすりもしなかった。」というのが彼のとっておきの自慢話であった。鈴木投手には全く歯の立たなかった彼であったが、化学研究室対抗の野末杯ではピッチャーで大活躍し伊藤研の優勝に大きく貢献した。彼の葬儀の時、「これは大空君のものだ!」と当時の表彰状を三上教授から一緒に棺に入れてもらい、遺影の彼が自慢げに笑ったように見えた。彼は大学ではアイスホッケー部に所属し、7帝戦(7旧帝国大学が集まって開催される大会)では最優秀ゴールキーパー賞も受賞した抜群の運動神経の持ち主だった。私も八幡町のスケート場に連れて行ってもらい、スケートの手ほどきを受けたりアイスホッケーの試合を観戦したりしたのを懐かしく思い出す。

 大学院に進んでからは連坊小路のボロ一軒家(床は今にも抜けそうで雨の日には盥が足りず雨漏りを避けて居場所を探すほど)に大空君と一緒に住み、貧乏ながら楽しい青春時代を過ごした。大家さんは「道路拡張計画がありいずれ壊すので我慢してくれ。」と直すつもりもない様子だったが、私達が仙台を離れるまでには工事の着工はなかった。仙台を訪れる際には懐かしい連坊小路の方にも足をむけるが今はすっかりきれいに整備され当時の面影はない。ボロ家で気楽な為だったかもしれないが、諸先輩、友人、後輩等がひっきりなしに訪れて深夜まで激論を交わしたのも懐かしい。特に斉藤先輩(前千葉大工学部学部長)には大変お世話になりました。私たちが修士論文を書いている時に彼は一緒に博士論文を書いておられた。大空君が亡くなられる前年の暮れに斉藤先輩と電話で大空君の話しをした際、「俺もガンマンだよ。暖かくなったら大空のところにいって昔と同じように一緒の部屋に寝ような!」とおっしゃられたがかなわなかった。

 大空君は三神峯の原研に通いながら電算機を用いた散乱解析をしており、徹夜も厭わず研究に没頭していた。その性癖は富士通に入社してからも変らず、残業も月200時間を超える生活が続いたようである。企業戦士を地でいった大空君だがソフト開発の仕事が心底好きだったのだと思う。普通の人に戻ろうと気が付いた時は「時既に遅し」、それが結果的に大空君の寿命を大幅に縮めてしまったのではないだろうか。

 大空君は多趣味で多彩な先輩諸氏に感化され、非常に多趣味で饒舌であった。歴史書を好みその時代に深く入り込み、得た知識に輪をかけて得意げにとうとうと話した。人格者の大空君が話しをすると間違っていてももっともらしく聞こえたから不思議だ。そんな彼でもまだまだ話し足りなかったのか死期を悟った最後は一晩中奥さんに話続ける夜が何晩も何晩も続いたという。そして「雨と一緒に戻ってくるから。」と家族に言い残したという。大好きな沖縄民謡「安里屋ユンタ」や昔懐かしい「青葉城恋歌」等を末娘の伴奏に合せて家族みんなで歌いながら息を引き取ったという。

 彼の家族は奥さんと4人の子供。長女は結婚して静岡県の掛川市におり、「懐妊の報告」までは大空君に済ませたが昨年7月の男子出産の報は間に合わなかった。長男も結婚して埼玉県行田市におり、大空君の遺影は長男の子供を抱いている姿であった。次女は大阪で教員をしており、大空君には婚約者の紹介まで済ませている。末娘は沖縄大学生で大空君の看護の為、メールで教授に卒業論文を送り届け昨年無事ご卒業したそうです。いずれのお子さんも親孝行で素直に明るく育ってすばらしい家庭です。それでも大空君は心配な様子で節目節目の日には約束通り三島に戻っている様子で、彼の節目の日は決まって雨降りです。

 以上


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