東北大学での35年をふりかえって
斎藤 紘一
“光陰矢のごとし”とは実に的を射た表現だと思います。本年3月末日、東北大学を退職する日の私の実感です。大学院修了までの月日を重ねた「荒削りな北の大地」をあとにして「長い歴史と豊かな文化に支えられた学都仙台」の駅に降り立ったのは1971年3月末、地図を片手に路面電車とバスを使って街を動き回ったのが昨日のようです。それ以来35年の時が,矢のように過ぎてしまいました。「他者があって我を知る」といわれますが、35年の間に出会った方々、特に化学教室の諸先生,院生・学生,事務職員の皆さんとの出会いを通して私が作られてきたものと感謝の思いを新たにしています。伝統ある化学同窓会にも加えていただきました。
前年に分析化学講座の教授に就任された鈴木信男教授と4月に着任した新米助手2人は,某喫茶店で研究構想についてのディスカッションを頻繁に行いました。コーヒーの香りに満ちた“研究室別館”での意見交換は実に意義深いものでした。分離と分析を看板に掲げる鈴木研で,移動する液体相と固定した相の間での分配現象による分離法の研究を斎藤が,非混和液液2相間分配現象の研究を渡會助手(現大阪大学理学研究科教授)が主に担当することになりました。研究上の特色の一つは,金属キレートを共通の研究対象物質として選んだことでした。母校の北大でガスクロに関する研究を行ってきた私には,液クロの研究は非常に刺激的でした。というのは,その数年前に分子を主にサイズによって分けるゲル濾過やゲル浸透による液クロ(現在はサイズ排除クロマトに名称統一されている)が開発され,間もなくHPLC が米国で発表される(1972年)時期でした。さらにその後も,イオンクロマト(1975年),ミセル動電クロマト(1984年), HPLC-MSの実用化と液クロのルネッサンスが続き,これらの液クロが,生化学や高分子化学,有機化学,環境化学などの進展に目を見張るような貢献を果たすことを目の当たりにすることになったからです。
米国アイオワ州立大学エームズ研究所における1年間の環境分析の研究から戻ってからは,最終的なターゲットを環境中の金属ポルフィリンとし,そのケミカルスペシエーションを実現しようという目標をたてて研究を始めてみたものの,乗り越えるべきハードルの高さと多さに正直いって圧倒されました。研究に参加して下さった学生・院生の方々が苦労の末に手に入れた一つ一つのデータの積み重ねが確かな手応えとして実感できるようになったのは,定年近くになってからでした。無謀にも思えた研究の達成目標に手の届くところまでたどり着いて中締めを迎えられたのは幸いでした。エームズ研究所のフリッツ教授は、「今は非常に困難なことながら、重要になる日が必ずくることを確信して前に進む」と力説されました。私の隣の部屋で同教授がシングルカラムイオンクロマトの開発に苦闘して時でした。同先生が開発した方法は、今日、無機イオンの分離分析法として広く普及するに至っています。小生20 才の夏に耳にした,米国黒人解放運動の指導者M.L.King,Jr. が行った有名な演説の一部、... And so even though we face the difficulties oftoday and tomorrow, I still have a dream. ... は、曲解(本来は人種差別のない社会の実現)ながらも、退職に至るまで私の研究生活を勇気づける一句でした。私を支えて下さったのは,このような「言葉」と研究で何らかの接点があった多数の学生・院生の方々からの刺激でした。
東北大学での終わりの10 年は、大学教育(特に教養部廃止後に設定された全学教育カリキュラム)の改善と円滑実施を使命とする大学教育研究センター(後に高等教育開発推進センターに改組,川内キャンパス内)での活が本務となり、ここでは,化学の講義と実験の授業に加えて全学教育に関わる調査,企画・調整の会議が多く,目の回る思いでした。そのような中で,兼務する化学専攻については,小数ながら優秀な院生の方々を迎えて,時には近隣の文系の先生からお叱りをうけるほどの賑やかな雰囲気の研究室(無機・分析化学講座環境化学研究室)となりました。しかし川内のような文系型組織の中で一人化学実験を伴う研究を展開することの苦労は,周囲の文系教員や事務方の理解を得ることから,電力使用や廃棄物処理にいたるまで数多く、正直なところ、これには参りましたが,今となっては、良い経験だったと考えています。
いま私は、今後の構想を練りながら,しばし気力の充電を図っているところです。今後も皆様から刺激をいただくことができれば幸いです。なによりも,化学教室の益々のご発展と,同窓会会員の皆様のご健勝を祈念申し上げ,結びとします。
斎藤先生との思い出
日本原子力研究開発機構 渡部陽子
斎藤先生は常々、「研究はロマンだ」と口癖のようにおっしゃっていました。先生の頭の中には壮大な研究計画が広がっているようで、研究についてお話されているときの先生はまるで少年のように生き生きとされていました。斎藤先生が余りにも楽しそうにお話をされるので、こちらもついその気になってしまい、修士課程の2年間という短い期間でしたがとても興味深く研究に取り組ませて頂きました。
私がお世話になっていたころ、斎藤研究室は川内キャンパスにありました。学部生の時に慣れ親しんだキャンパスで毎日のように先生と研究室のメンバーで食事をしたり、時には先生のお好きなお蕎麦屋さんに連れて行って頂いたりしたのも楽しい思い出です。少人数でしたが話題に事欠くことがなく、いつも賑やかだったと記憶しています。先生はとてもお忙しく、時にはお昼も食べずお仕事に集中されていることもありました。また、本当にお忙しい時期には徹夜を週に1,2 回されていまして、学生に勝るとも劣らない集中力と体力には大変驚かされました。このように、非常に熱心にお仕事をされる斎藤先生を、私は研究者としてだけではなく、温厚なお人柄の持ち主としても尊敬しております。細かいエピソードを書くことは控えさせて頂きますが、怒っても仕方の無い状況でも決して感情的にならず落ち着いて対応されるところは見習うべきだと感じました。
斎藤先生のご趣味は合唱で、学生時代から合唱団でご活躍されていたそうです。還暦のお祝いで温泉旅行をした際は、先生のご希望でカラオケボックスに行きました。みんなで先生の美声を聞くのを楽しみにしていたのですが、先生の順番になると急に恥ずかしく思われたのかマイクを他の人に渡してしまいました。結局その曲は他の人が歌い、先生は次の順番のときに歌ってくださったのですが、太く伸びやかな歌声で本当にお上手でした。
卒業してからも幸い何度かお会いする機会があり、相変わらず明るくお元気な先生には毎回元気を頂いていました。研究熱心な斎藤先生がご退職されるのは非常に惜しいことと思います。しかし、現在は学部生の授業を担当され、そちらの方面でご活躍されていることを嬉しく思っております。これまで大変お忙しい日々を送られてきましたので、これからはご自身のご健康を大切に余裕のある生活を送って頂きたいものです。また、ご家族と旅行をされるために大きめのお車を購入されたそうですので、ぜひ色々な所へお出かけになって楽しい時間を過ごして頂きたいと思っております。
今まで大変お世話になりました感謝の気持ちと、斎藤先生のお幸せを願いまして結びとさせて頂きます。