原田宣之先生御退職特集


御退職寄稿 「定年退職と私の学生時代」 原田宣之

「原田宣之先生のご退職によせて」 東北大多元研 桑原俊介

「原田宣之教授の御退職に寄せて」 宮城県古川黎明高校 山本陽子


「定年退職と私の学生時代」


原田先生


拝啓

 7月も中旬となり、仙台でも梅雨の合間に暑い日が続くようになり、夏の到来を思わせます。東北化学同窓会の皆様にはお元気でご活躍のこととお慶び申し上げます。さて早いもので、私が本年3月に東北大学多元物質科学研究所を定年退職してから3ヶ月が経ってしまいました。しかし、相変わらず後片づけに追われています。1月にコロンビア大学の中西香爾教授、Nina Berova教授、本学薬学研究科の山口雅彦教授のご尽力で、退職記念のシンポジウムSendai Symposium on Molecular Chirality 2006を開催していただきました。各地からの多くの参加者のもと、第一線の研究者の講演を聞くことができ、素晴らしいシンポジウムでした。また、その後の懇親会と中西先生の恒例のマジックなど楽しい一時でした。なお、このシンポジウムは多元研とコロンビア大学化学教室との学術交流協定の一環として行われたものです。また3月には多元研での最終講義と祝賀会、さらに国際センターでの恒例の化学教室送別会などでお世話になりました。

 私が仙台に来てから45年が経ちました。学生時代の9年間と東北大学に勤務してからの36年間、これほど長く仙台に居ることになるとは当初思ってもいませんでした。昭和36年の初春に受験のために仙台に来たのが初めてです。鹿児島から特急はやぶさ(学生はお金がないので寝台車でなく、座席車でした。でもこれも受験のための特別待遇で、以後は各駅停車の鈍行列車が主でした)に乗り東京へ、上野で乗り換えて急行吾妻(あるいは松島)で仙台に、2日がかりの旅でした(この時に初めて黒磯〜仙台間が交流電化されています)。東北大学理学部に入学した後や、研究室の学生からもよく聞かれたものです。なぜ、九州の果てから仙台に来たのかと。公式の答えは、東北大学は理科大学に始まっている伝統と野副鉄男教授を初めとする優れた研究者(蛍雪時代特集号による)に引かれた点です:後に野副先生の定年退官後に共同研究する機会に恵まれたのも楽しい思い出です。これについてはスペースがあれば後で書きましょう。化学教室出身で後に日本女子大学の教授になった丹下ウメ(私にとっては歴史上の人物であり、敬称略)、また大阪市立大学の久保田尚志教授も鹿児島出身と知り驚きました。久保田先生とは、その後、化学の歴史における間違いの例について議論したのもおもしろいことでした。仙台に来た非公式の答えは、私は旅が好きで長時間の汽車も苦になりません。仙台から鹿児島に帰省する際は多くの国鉄支線を経由したものです(例えば米坂線、飯山線、中央本線など)。もちろん安くあげるために旅館などには泊まらず車中泊で、経路も安くするために一筆書きです。今から考えると面倒くさい計算が必要で、出札する仙台駅の駅員泣かせだったかもしれません。しかし途中下車は自由で有効期間も長かったのでだいぶ見て歩きました。最初に泊まる福岡の叔母の家にたどり着いた時は真っ黒でした(当時は大部分が蒸気機関車でしたので、石炭の煤がひどかったのです)。

 川内の教養部時代は、お金はありませんでしたが、わりに自由に過ごしました。講義をさぼって、一番町の名画座などで映画を見たものです。「誓いの休暇」や「ナバロンの要塞」(この頃だと思いますが)など今考えても良いものを見ています。おかげでドイツ語を落としてしまい、再試験です。その担当は文学部の助手で若い畠中美菜子先生でした。後で気づいたのですが、畠中先生は平成12年に本学の名誉教授になっておられますので、私共と6才の違い、当時は修士を出たぐらいで、学生とあまり違わなかったことになります。しかし、頭が上がりませんでした。教養部で新鮮だったのは、代数学と解析幾何学でした。特に代数学は論理の積み重ねで高校の数学とは全く違うものでした。有機化学は残念ながらあまり記憶にありません。多分Fieser の英語版の翻訳に追われ、中身の理解まで行かなかったのかもしれません(この時、翻訳本があり、訳者が中西香爾教授であると知ったのですが、後に中西先生とずっと一緒に研究するとは夢にも思いませんでした)。生物にも興味があり、農学部の学生と一緒に生物実験を取ったのですが、最初が顕微鏡下での線虫のスケッチで、気味悪いとは思いませんでしたが、虫愛づる姫君の心境には至りませんでした。結局、化学を専攻することにしました(当時は理学部一本で入学していましたので、2年になる時に専攻を決めたのです)。

 片平の化学教室に移り、第一講義室で分析化学、有機化学、量子化学、理論化学などの講義を受けました。しかし、この階段教室が、魯迅が講義を受けた仙台医学専門学校の跡であるとは、当時誰も教えてくれなかったし、また認識もされていませんでした。興味を持ったのは安積宏教授の量子化学であり、新鮮でした。またPaulingの化学結合論(小泉正夫訳)を読んだものです。なお偉い先生でしたが、小泉正夫教授の理論化学の講義は率直眠たいことでした。3年生の時に東京教育大学から中西香爾教授が有機化学第二の後任として赴任され、早速講義を受けました。出版したばかりの赤外線スペクトルの英語本を使っての講義であり、有機化学にこのような研究方法があったのかと新鮮なものでした。また人柄も自由闊達で、当時の教授としては珍しいものでした。このため4年生では中西研究室に所属しました。これが中西香爾教授との共同研究の出発点ですが、以後今日まで43年間続いていることは本当に幸せなことです。人生には人との出会いが大きな転機と言いますが、私の場合もそのようです。省みて、私は研究室に配属になった学生と院生に、本当の出会いの機会を与えることが出来たであろうかと危惧します。出会いのもう一つは、お茶の水女子大学から赴任されてきた奥田典夫助教授に統計力学の講義をうけたことです。こんな理論があったのかと本当に新鮮でした。夏休みに九州から送った統計力学のレポートが今も残っています。4年生の時は中西研で宇田尚助手(肩書きは当時のもの。その後、私は非水溶液化学研究所とその後の反応化学研究所で宇田尚教授の助手、助教授として共同研究が出来たのも幸いでした)の指導のもとで天然物の合成研究を行いました。その後、大学院に進学し研究を続けましたが、中西研の良さは、やりたい研究をわりに自由にやらせてくれることでした。ここに来て本寄稿の制限字数を大きく超えましたので、ここらで終えます。その後の経過については、また何かの機会に述べることが出来るかも知れません。なお定年退職後はコロンビア大学の中西香爾教授の所で共同研究を続けます。

 大学院の終了後は職員として勤務、前半は非水溶液化学研究所(工学研究科応用化学専攻の研究室)の助手、助教授として、また後半は反応化学研究所と多元物質科学研究所の理学研究科化学専攻の研究室の担当として、研究生活を送ることが出来たのは本当に幸せなことでした。その間にお世話になった先生方、外国および他大学を含めた多くの共同研究者の先生方、同僚の皆さん、研究室のスタッフ、学生と院生の皆さん、事務部と研究支援部の皆さんに感謝申し上げます。

 最後に東北化学同窓会の皆様の益々のご活躍とご多幸を祈念いたします。

敬具

原田 宣之


原田宣之先生のご退職によせて


東北大多元研 桑原 俊介


 原田宣之先生、ご退職おめでとうございます。原田先生には、修士、博士、助手に至るまでの8年間の研究生活において、懇切丁寧な御指導、御鞭撻を賜りました。ここに改めて深く感謝申し上げます。

 原田先生に初めてお会いしたときは、私がまだ青山学院大4年生で、原田研究室に見学に来たときでした。第一印象は、とても温厚な先生といったイメージでした。また、初対面の私に対して、熱心に研究テーマの説明をして下さり、化学に対しとても情熱を持っている先生という印象を受けました。幸い、修士から原田研究室でお世話になることになり、原田先生との研究生活がスタートしました。

 研究室に配属されてからの先生の印象は、研究に関して非常に厳格であるというものでした。研究報告会などでは、学生は常に厳密なデータが求められました。研究生活の初めの頃、私は実験技術やデータの取り方などで未熟な点が多く、先生によく怒られながら実験を進めていたのを覚えています。後から考えますと、研究に対する姿勢や厳格さというものをその時教えられた気がします。また、先生が望む以上の結果をなんとか出して驚かせてやろう、という気概が育ったのもその頃かも知れません。このように、厳しいながらも情熱のある原田先生の御指導があってこそ、現在の研究者としての自分があるものだと思っております。

 原田先生は、私をはじめ多くの学生達を、いろいろな国内、海外の学会に連れて行って、発表する機会を与えて下さいました。先生は旅行が趣味であり、特に海外旅行での経験が豊富なため、海外では先生の後を小ガモのようについていくだけで、おいしい食事、美しい風景などを堪能でき、快適な学会旅行ができたことを覚えております。

 また、原田研究室では、毎年年度末に「分散会」と称した一泊旅行が慣例となっていました。その旅行は、原田先生は魚介類が大好物のため場所は新鮮な魚が食べられるところ、また社会科見学をルートに組み込まないといけない(化学だけでなく幅広い知識も必要といった先生の指導の一環か)といった条件があるユニークなもので、幹事は毎年四苦八苦しておりました。ちなみに私が幹事になった時は、新潟の燕まで車で行き、キセル作り見学、鎚起銅器作り見学を行い、寺泊で一泊といったものでした。翌朝の寺泊の朝市見学で、魚介類をうれしそうに買い求めていた先生の姿が忘れられません。

 以上、原田先生との思い出を簡単に振り返ってみました。今にして思うと、楽しく活気に満ちた研究生活をおくることができたのは、原田先生の支えがあってのことであったと思います。最後になりましたが、これからの原田先生の益々のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。


原田宣之教授の御退職に寄せて


宮城県古川黎明高校 山本 陽子


 原田宣之先生と初めてお会いしたのは、平成11年の春、先生の生体機能制御研究分野の研究室を訪問させて頂いたときでした。研究所は、今の名称である多元物質科学研究所ではなく、まだ反応化学研究所と呼ばれており、私は弘前大学の4年生でした。なぜ原田先生をお訪ねしたかというと、大学院進学を考えていた私は、原田先生が研究されていた生理活性化合物の絶対立体化学について興味を持ち、その研究内容についてお話頂きたいためでした。研究所の教授を訪ねるということで、私は色々な意味で大変緊張していましたが、原田先生はにこにこと温かく迎えてくれ、肩の力を抜くことができました。原田先生はこれまでの研究と現在取り組んでいる研究について、とても丁寧に分かり易くお話くださいました。

 翌、平成12年から平成14年3月にかけて、私は原田研究室の博士前期課程として原田先生にご指導いただき、大変お世話になりました。恥ずかしながら、始めの頃は不勉強であったため詳しく存じ上げませんでしたが、勉強・研究を続けるうちに、原田先生がいかに優れた研究者であり、素晴らしい先生であるかを知りました。そのような先生の下で研究ができたこと、ご指導頂いたことに感謝し、誇りに思っております。

 原田先生は、CD(円二色性)励起子キラリティー法による絶対配置決定に精通しておられました。この方法は、X 線結晶解析と並び、非経験的に絶対構造を決定できる優れた方法で、機構が簡単でCotton効果も大きく帰属が容易であることから絶対構造決定の最も有力な方法です。これまでに天然物の絶対配置や生体高分子の高次構造の研究などに利用され、原田先生はコロンビア大学の中西香爾先生と並ぶ本法の世界的権威でいらっしゃいます。昭和58年に、絶対構造決定のための円二色性励起子カイラリティー法の開発に関する研究で、原田先生は日本化学会第1回学術賞広領域部門を受賞されました。

 更に原田先生は、平成12年には分子不斉研究機構の研究でMolecular Chirality Awardを受賞されています。また近年、世界初の動力機構を備えた光動力キラル分子モーターを構築したとして大変な注目を浴びました。これは、オレフィンのシス−トランス光異性化を回転の動力源とし、ツメ歯車効果、モーター分子のキラリティーの特性を生かしたものです。原田先生はその他、キラル化合物の光学分割、鏡像体過剰や光学純度などに関する数多くの研究を手がけました。よって原田先生の執筆された論文・書籍も多く、論文における先生の書籍の被引用度が化学系では1020回と学内一の回数であると伺っております。


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