吉藤 正明先生御退職特集


東北大を退職するにあたって     吉藤正明


吉藤先生御退官に寄せて     山田直毅(平成8年加入)






東北大を退職するにあたって

吉藤 正明




私が、東北大に赴任したのは、平成元年4月のことで、ちょうど、年号も昭和から変わって落ち着き始め、更に仙台市が、政令指定都市として、区制が初めて導入された時であった。

それまで国内では東京しか住んだことのない私が、仙台に移住するにあたっては、多くの人から、どんな繋がりがあるのか、と訊ねられた。が、仙台は全くの新天地で、東北大理学部化学科が、日本では有数の有機化学研究のメッカであり、ここに赴任することが、私にとって、どんなに名誉なことであるかを深く認識していた。そしてここでの研究が自分にとって最高のものとなるよう、最大限努力する覚悟を胸に、仙台に居を構えた。

研究室は、当時の化学第二学科、合成有機化学講座を継承する形であり、日本有機化学界でキラ星のごとく著名な野副研究室の流れの中で、野副鐵男先生が退官まで在籍され、高瀬嘉平先生にバトンタッチされたものであった。ところが、私の赴任当時、野副先生の直弟子に当たるスタッフが、まだ在籍され、双方にとって、なかなか、困難な船出と云わざるを得なかった。それというのも、今まで、この研究室で伝統的に手がけられてきたアズレンやキナレン関連の研究と、私の専門分野である、リン化学との融合がなかなか困難な状況だったからである。それに、研究室の財政状態も必ずしも良くなかった。

その頃はまだ、野副先生がご健在で、時々来仙されて、いろいろご心配下さった。幸いなことに、私の研究内容にも興味と理解を示され、その後の16年の私の在任中に、不十分ながら、何とか幾つかの解決はできたのではないかと考えている。

さて、自らの専門の有機リン化学の推進ということで、以前、自分が主となり発見したリン・リン二重結合の化学を中心に、研究活動に邁進した積もりであったが、平成7年、サリン事件という不幸な事件に遭遇した。この事件では、東北大はむろん、世界のリン化学関係者が直接、間接にも関与したことは全くないが、サリンなる化合物の中にリンが含まれていたため、世間一般にリンは危険な元素であるという認識が蔓延してしまった。折しも、化学自体が見えない学問であるため、化学物質アレルギーの社会の風潮もあり、世間からは、リン自体が疫病神のように認識され始めたのには、正直驚いてしまった。一般には、生物自体が、これなしで生きていけないことを理解している人は、あまり多くはない。過剰な肥料、洗剤、農薬使用の問題が世間の耳目を集める中で、リン自体を悪いとする、短絡的なマスコミの風潮も影響している。

こういった状況のもと、それでもこの化学を一貫して推進することを、16年間辛抱強く見守ってくれた、東北大学理学部化学教室の諸氏に深く感謝している。リン化学は、本来、ドイツ、ロシア(ソ連)を中心に発展した化学であるが、平成13年には、アジアで初のリン化学国際会議が仙台で開催され、内外から多くの化学者が集い、その半数以上が外国からの参加者であったことは、特筆すべきことであった。

そのしばらく前、ドイツ・フンボルト財団から、図らずもフンボルト学術賞を授与され、ドイツで1年間研究する機会が与えられた。ただでさえ多忙な日本の研究者が、どのようにしてこの機会を生かすのか、大変に困難を覚えたが、日本の春、夏の休暇期間をこの機会として捉えることにして、ようやく5年以上かけてその義務を果たした。ドイツ滞在中は、大学院学生の指導、各地の20近い大学での講演、学会出席など、多忙に過ごした。おかげで、各方面の研究者と交流を深めることができ、この面でも、東北大学が寛大に暖かく支援してくれたことを有り難く思っている。

在職中は、種々の委員、役職に任じられるのは常のことであるが、一番印象に残ったのは、やはり、東北大の幾度かの機構改革のことである。

この件では、様々な部局との調整が必要で、本当に並々ならぬ努力を必要とした。各部局の代表が、それぞれの利権を代表して交渉するので、決して理想的に事が進んだという訳ではない。それでも、最善を尽くそうと微力を傾けたが、なかなか思うように事は運ばず、科学を遂行することとの差異を痛感したものである。

附属図書館青葉山分館長や、ガラス工場長を経験したのも、現場の雰囲気を汲み上げるという意味で、よい思い出になった。

こうして過ごした16年の任期は、今から思えば、一日のごとく過ぎ去った。この間、大した病気もせず、無事任期を全うできたことは、本当に幸いなことであった。着任当時、櫻井英樹先生から、「あまり、無理をしないように。東京から来た人は頑張り過ぎて、体をこわすからね。」と言われたことは、常に頭の片隅にあり、あまり、ハードワーカーでなかったのかもしれない。が、自らの中では初心を貫き通し、納得できる働き方を心掛けてきたと考えている。

ただ結果的に、せっかく招聘して下さった東北大の方々の期待に応えることができたのだろうか、と考えると、内心忸怩たるものがある。もっと、どこか、進め方に工夫が必要なのではないか、と思うこともあったが、リン化学に固執した。それというのも、「これで、東北大の理学部には周期表の13族から15族が揃った」と、赴任当時に典型元素有機化学の大切さを誇らしげに説かれた櫻井先生の笑顔を支えとして、理学研究における基礎化学の重要性を最後まで示したかったからでもある。

東北大を去って、3ヶ月余り、アメリカ、アラバマ大に落ち着いて再度研究者生活の仕切り直しをしている。この間、思いがけなくも、ロシア,タタール共和国大統領から、国際アルブゾフ賞を授与され、今までの研究者生活が多少とも評価されたことに、ほっとした思いである。長らく研究をサポートしてきた東北大に、ようやく、少しばかりの恩返しをしていると、このことを考えて下さる方がおられれば、私としては更に幸いである。

最後に、東北化学同窓会会員各位の、更なるご発展とご健康を、衷心より祈念申し上げる。



ページトップへ



吉藤先生御退官に寄せて


山田直毅(平成8年加入)

 2001年3月に仙台を離れ、早4年が過ぎようとしていた2005年の年明け、吉藤先生御退官のお知らせを受け取りました。3月の最終講義では、研究室の諸先輩方も御列席の中、僭越ながら卒業生代表挨拶の壇に立たせて頂きました。

挨拶は声で行うものですから、その場限りで消えるものとある意味軽く引き受けましたが、これが寄稿となると、後々まで残る訳ですから、依頼を頂いた時には多少逡巡するところがありました。

 しかし、吉藤先生には公私共に大変お世話になりましたので、そのご恩返しの一部として何とか一筆搾りだそう。という思いでお引き受けしました。

 吉藤先生の講義を最初に聴講したのは、1992年に東北大学理学部化学系に入学した直後のプレゼミでした。有機化学に関連した各研究室の教授方が、週替わりで研究内容についての概論をお話しになる、入学直後の学生を相手とした講義でした。

高校卒業程度の知識しか持たない学生ですから有機化学の知識は非常に乏しく、ましてや先生が御専門とされているヘテロ元素有機化学などは全く未知の分野です。当然講義内容は表面をなぞるようなものでした。

それでも、新規な低配位リン化合物の反応性は、類似した構造を有する既知の化合物、特に、周期律表からは非常に近いという印象の、窒素を含む化合物から予想されるものとは全く異なる、というお話の内容には、非常に興味をそそられたことを記憶しております。

1995年春の研究室配属で合成有機化学研究室にお世話になることが決まり、博士後期課程までの6年間、様々なことを御指導頂きました。

 研究室に入ってまず驚いたのは、先生の「営業時間」の長さです。8〜24時の1日16時間営業で、いつも教授室には明かりが点っていました。学会の参加登録や学位論文の要旨作成時には非常に有難く、深夜までチェックをお願いに教授室へ向かったものでした。

 先生のチェックは内容のみならず、助詞の選択からインデント等、文の体裁にまで及び、これほどまでに幅広く細かいチェックを、私は就職した今に至るまで他に受けたことがありません。

 御指導の中で先生が常々仰っていたことは、「何も知らない相手に内容を伝えられる文章になっているか」良く考えるようにということでした。

 確かに、実験をしている本人は当然のことと省略してしまう内容も、全く知らない人には非常に難解で混乱を引き起こすということは良くあります。書類作成の際には、常にこの事を念頭に置くようにという先生の御指導は、当時よりもむしろ、就職した今となって非常に役立っており、化学の知識と報告の手法という、研究者にとって車の両輪と言うべき二つの「道具」を御指導頂いたことを深く感謝しております。

 研究室を離れると、花見、芋煮、教授宅での新年会等の行事では、様々な料理の差し入れを頂きました。その際、何も言わずに並べられるため、全て奥様の手料理かと思っていると、その内の一品が先生の手料理ということが良くありました。

 また、私事ですが、結婚の際に仲人をお願いしましたところ、お忙しい中快くお引き受け下さり、式と披露宴を行ないました茨城まで、遠路はるばるお越し頂きました。その後、子供が産まれた際にもお便りを頂き、この場を借りて御礼申し上げます。

 学生はもちろん、個性派揃いの教官陣をまとめるのも大変なことだったと思います。既に新天地での御仕事を開始されたとお聞きしました。煙草は吸わず、酒も嗜む程度でいらっしゃる先生ですが、くれぐれもご自愛の程をお願い致しまして、終わりの言葉とさせていただきます。

 先生、大変お世話になりました。




ページトップへ

目次に戻る