工藤 博司先生御退職特集


核 種 の 森 の 40 年           工 藤 博 司


工藤博司先生は走る!           関根 勉






核 種 の 森 の 40 年


工 藤 博 司



 私が“核種の森” (放射化学) に足を踏み入れたのは1963年4月のことでした。放射化学講座に配属され,塩川孝信教授の下で卒業研究をすることになったときです。当時は,国を挙げて原子力平和利用推進の掛け声が高まる時代で,原子力は新しい世界を開く希望の星ともてはやされていました。その基礎となる放射化学は,若者にとって大変魅力的な学問分野でした。大学祭で東北大理学部のベータトロンを見学したとき,「十円硬貨を出してみな。ここに置くと原子が変るよ。」と言われたことも頭に残っていました。放射化学は元素 (核種) の変換をともなう化学であることが何よりも興味深く思えました。

それ以来41年の間,核種の森を歩いてきました。四季折々に美しい情景を見せる魅力的な森でした。小さいながら激しく水しぶきをはね跳ばすホットアト厶の滝,小高い核融合の丘,コンコンと湧きだすミュオンの泉,芝生が美しいテクネチウムの広場もありました。小高い丘の脇にある沼の水面には,陽電子と反陽子が逆立ちして映っていました。さざ波が立つとその像はスッと消えてしまいました。ある時,黄色に色づいた落葉松林の脇でセレンディップの三人の王子に出会いました。彼らは奇妙な形をしたリチウムの房を私に手渡し,去って行きました。

日本原子力研究所に入ったばかりの頃には,ホットアトムの滝の水しぶきの魅惑的な動きの解明に熱中しました。水滴が岩とぶつかるときの角度,エネルギー,水量や風 (放射線) の影響などをつぶさに調べ,水しぶき (ホットアトム) の跳び散り方と運動エネルギーの関係を突き止めました。この成果は,生命科学の研究で広く使われる高比放射能ラジオアイソトープ (51Cr, 64Cuなど) の製造に役立ちました。

核融合の丘では,山羊 (リチウム化合物) にミネラル豊富な草 (中性子) を食べさせ,核融合炉の燃料となるミルク (トリチウム) を取り出すことに挑みましました。核融合炉には,使った量以上のミルクを出す (増殖する) ことが要請されます。どの山羊を使えばよいか判断するため,色々な種類の山羊に草を与え,ミルクの色 (化学形) や量を調べました。その一方で,トリチウムの大量製造にも取り組み,天秤で測れる量の世界最高純度のトリチウム (T2) をつくりあげました。

この高純度トリチウムは,ミュオンの泉で役立ちました。東大・中間子科学研究施設との共同研でした。ミュオン (??) はレプトンに属する基本粒子で,電子 (e?) と同じ性質をもつ粒子ですが,一つだけ違いがあります。その質量が電子の207倍もあるのです。そのため,重水素とトリチウムの混合系に?? を打ち込むと,?? の仲立ちで原子核同士が融合するのに十分な距離まで近づき,ミュオン触媒核融合と呼ばれる反応が起こります。高エネルギー物理学研究所の泉 (加速器) から湧き出る?? を使って,この反応の実験に成功しました。

1994年に東北大学に移ってからは,テクネチウムの広場にも歩を進めました。同窓会の皆様ならご存知のように,この43番元素 (Tc) は東北大学と因縁の深い元素です。無機化学講座初代教授の小川正孝先生が1908年にニッポニウム (Np) と名付けた幻の元素です。前任の吉原賢二教授は,テクネチウム化学を積極的に展開し,世界の先導役をつとめました。私もそれにならって,テクネチウムの錯体やコロイドの研究を進めました。本年5月には,International Symposium on Technetium ? Science and Utilization という研究集会を主催し,10ヶ国から77名の参加者を得て盛会でした。

沼 (22Na) から取り出した陽電子 (e+) をCO2やN2Oの超臨界流体の中に打ち込んでみました。陽電子は電子と対消滅を起こしてガンマ線を放出します。そのガンマ線の寿命スペクトルの解析から,ポジトロニウム (Ps) 生成を経る対消滅過程を,理論計算を併用して詳しく検討しました。

セレンディップの王子からもらったリチウムの房には,意外な秘密が隠されていました。この出会いは1997年秋のことです。核融合の丘から脇道にそれて,落葉松林 (西ドイツのユーリッヒ研究所) に行きました。核融合炉のトリチウム増殖材として有望な酸化リチウム (Li2O) の高温蒸発挙動を調べていたとき,平衡蒸気中にLi3O分子を見つけたのです。解離エネルギーとイオン化エネルギーを求め,J. Chem. Phys. 誌に論文を投稿したのですが,受け付けてもらえませんでした。原子価電子が9個もあるような分子は,常識 (オクテット則) では考えられないというのです。確信がありましたので,諦めずに編集者とやりとりをつづけ,1年後にようやく受理されました。その論文がPople (1998年ノーベル化学賞) とSchleyerの目に止まり,大騒ぎになりました。彼らが理論計算で求めた解離エネルギーとイオン化エネルギーが私たちの実験値に一致したのです。これが「超リチウム化分子」(理化学辞典,第五版参照) 誕生の発端です。その後,10個の原子価電子をもつ超リチウム化分子 (Li6C, Li4O, Li4Sなど) も見つけ,その結合状態と分子構造,過剰な原子価電子の役割などを解き明かしました。このリチウムの房は,原研・先端基礎研究センターの目玉商品として評判になりました。東北大学に移ってからもこの房を眺め回しながら,楽しい時を過ごしました。

そんなことをしている間に,定年退職を迎えました。化学教室では11年間仕事をさせてもらいましたが,あっという間に時は流れてしまいました。お世話になりました多くの皆さんに心からお礼申し上げ,化学教室の益々の発展をお祈りいたします。





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工藤博司先生は走る!

関根 勉

工藤先生が東北大学に着任されたのは平成6年4月でした。4月1日に研究室に出てこられたとたんに工藤先生に1本の電話がかかってきたのが思い出されます。これは着任後に初めて受けた電話と記憶していますが、なんとその電話は東北大学スキー部の部長になってほしいとの内容だったそうです。「着任後の初めての電話がスキー部長の依頼か」と笑っておられましたが、工藤先生が余人を持って替えがたい“スキーの資格”をお持ちであったことは後に知った次第です。なにせこの資格を持っているため、後の長野オリンピックの審判員の依頼まできたのには驚かされました。このオリンピックの件に関しては、「一生に一度(?)のことだろうから是非行くべきだ!」と先生をそそのかしましたが、折りしも学位審査等の季節であったため断念されました。

先生は、冬は必ずスキー道具を車の中に常備し、一触即発体制でことに対応できる様子でした。雪のない季節においては走ることを欠かさず、冬に向けての体作りをされていたことも数多くの人の目にとまったところです。学会や出張に出かけた折でも、また国内であろうが国外であろうが無関係で、地球の上をただひたすら走っておられたというのが率直な印象です。そのまま走り続けて、あっという間にご退職のときを迎えられたように思えます。

先生との数々の思い出の中でひときわ記憶に残るのは、平成11年10月の「日本放射化学会」の設立にむけての多大なご尽力です。工藤先生はその設立準備委員会委員長に指名され、設立に向けてここでもひたすら走り続けました。全国各地から委員が集まって準備委員会は開かれましたが、そのたびに激論に次ぐ激論が交わされ、それをまとめ上げるのは本当に大変だったと思います。現在、学会が発足してからもはや5年が経ちましたが、設立に向けてお手伝いしたことなどが鮮明によみがえります。工藤先生につられて学会も走り始めましたが、走行時間、走行距離はまだまだ先生には及ばないようです。



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