昭和19年卒クラス会
小川正明
今年(2002年)も残り少なくなりました。不景気、不安、天候異変等嫌なこと続きの年ですが、我が東北大から若いノ−ベル賞受賞者が出た事は、何とも言えない喜びでした。研究や生産を嫌い、投機に励む世相は、やがて衰退滅亡の予告を覚悟しなければいけません。さて、今年も昭和19年卒の栗原義人君が昇天されましたのでお知らせ致します。歳から言えば81才ですから致し方有りませんが、苦労をし続けた人ですから残念です。我々一九会では残党14名が写真やメ−ルを集めてパソコン刷りで会報を出して激励し合つて居ます。その中に仙台空襲の時の東北帝大、化学教室の記事がありますので、参考までにお読み下さい。
11月17日 さいたま市領家町3−23−14 小川正明(昭和19年度幹事)
空襲を受けた東北帝大、化学教室 1991−3 米崎 茂
仙台大空襲の時の仙台の街の様子と、当時の大学、及び化学教室について、拙文ながら、筆者の体験と記憶、及び資料に基ついて書くことにした。 私は、昭和19年9月、東北帝国大学理学部化学教室、石川総雄教授の無機化学教室を卒業して、日本製鉄に入社し、仙台の金属材料研究室で研究生活をすることになつた。 然し卒業して間もなく徴兵で四国の善通寺の山砲隊に入営し、2等兵となつた。 痩せ細つた肉体で、重い大砲を山へ担いで上がる事なんか出来る筈がない。 之までに勉強してきたことは役立たず、之で我が人生は終わりかと思うと、軍政府の無策に対して憤りを覚えた。 処が戦時研究員に登録されていた為か、即日帰郷となり、再び金属材料研究所の赤煉瓦に戻り、之までの研究に没頭する事になつた。
金属の神様と言われた本多光太郎先生から、「米崎君、ラジオが鳴らなくて、空襲警報が聞けないでのう」と言われて、2度ばかりお宅に行き、修理をしたことがある。その時本多先生から加瀬努先生著「金属」という本にサインをして頂戴した。 又色紙に「鉄心」として戴き、今でも記念として大切にしている。 本多先生に「研究の合間に暇が出来たら、何をなさいますか」とお尋ねしたら、「研究がしたい」と言われた。 研究者としての心構えを、身をもつて示されたものと、深く我が肝に銘じた。
昭和20年7月9日、夜9時、サイレン3分間連続吹鳴の警戒警報が鳴り響いた。 耳を澄ましたが、敵B29爆撃機の爆音は聞こえなかつた。 その音とは、4基のエンジンの音が互いに干渉して唸り音となり、闇夜でも来たなと判る音で、当時の日本陸軍には、4発動機の付いた飛行機は無かつた。 毎晩警戒警報のサイレンが鳴つて居たので、その夜は特に気にもかけなかつた。 午後10時過ぎに、「敵機は東方海上に退去せり」とラジオが告げて、警戒警報が解除され、静かな夜に戻つた。 寝床に入り、やつと寝付いた頃、深夜0時5分、いきなりドカンドカンと大きな音がした。 続いて空襲警報のサイレン(4秒宛10回)が鳴り響いたので、外へ飛び出してみると、既に市の中心部に火の手が上がつていた。 又照明弾を落としていたのか、真昼のように明るく、仙台市内を照らし出した。 夜の街は、闇のベ−ルをはがされて、素裸にされたも同然だつた。
敵機の爆音は東の方に消えて行つた。 米ヶ袋から見ていると、次々に来る敵機が何を企てているのか、ハツキリ予測出来た。 遂に来るべき時が来たと覚悟を決めて、ゲ−トるを脚に巻き、防空頭巾を被り、バケツや盥に水を汲んで並べた。 間髪を入れずに八木山の上から現れた敵機は、1機又1機と、川内の第2師団から町の中心部を爆撃しながら、仙台駅から榴ヶ岡の連隊へのコ−スを取り、その度にドドンと腹に響くような爆弾の破裂音がし、風を切るような不気味な音を伴つて落下する小型のエレクトロン焼夷弾の破裂する音が、街のあちこちから響いてきた。 我が方は高射砲を撃たず、邀撃機が飛ぶこともなく、全く無抵抗であつた。 情けなさに地団駄を踏み、武者震いをするのを如何とも出来中つた。 敵機はこの仙台市の中心部に対して繰り返し波状集中爆撃を加えたのである。 和賀郡は之を盲爆と称した。 メラメラと燃えさかる炎が空を真紅に染めて、その下で、竹槍やバケツを持つて、死に直面し、逃げまどう市民の姿を想像すると、それは丁度、素つ裸で無抵抗の婦女子が、次々に暴行を加えられて居るようなものであつた。 各所に死体が横たわり、焦土の中の阿鼻叫喚の修羅場を想像するだけで、込み上げる涙を如何とも出来ず、手の施す術もなかつた。 当時私は、米ヶ袋上町17番地で新婚生活を始めたばかりであつた。 新婚所帯といつても、鍋や釜は勿論、包丁も金網も、およそ金属製品は市販されなかつた。 俎さえも売つていなかつた、 我が家の唯一の財産と言えば、目覚まし時計とカメラ、新婦の持つて来た羽二重の客布団と柳行李一杯の錦紗の着物と、もんぺと防空頭巾だけであつた。 敵の爆撃機B29は、毎分1機の割合で西から東に向かつて襲来し、大量の爆弾と50キロ級、100キロ級油脂焼夷弾を落として行つた。
仙台の軍は全く反撃しなかつたので、敵機は大胆にも、次第に低空に降りてきた。 大きな翼は、地上の炎を映して真紅に輝き、4つのエンジンとプロペラがハツキリ認めれれる程になつた。 小銃で撃てば命中する距離であると思われた。 防空壕からじつと上を見上げていたが、敵機は次第に南側のコ−スを取り始め、いよいよ頭上に迫つて来て、米ヶ袋から帝国大学の上にまで焼夷弾が落ちてきたし、燃料のような物が雨のように降つて来て、大学からも火の手が大きく拡がつた。 そこで庭の小さな防空壕から出て、南の方へ逃げることにした。 先ず布団を井戸に投げ込み、、カメラを土に埋めて、妻に手を引いて愛宕橋を渡り、橋の下に避難した。 其処には誰も居なかつた。 住民は更に南に方に避難したようであつた。 橋脚に身を寄せて、目の前に敵機が落とす多数の焼夷弾を、固唾を呑んでじつと見守つていた、 真夏の7月としては寒い夜であつた。 恐怖の為か、それとも敵の為すがままに蹂躙されている悔しさの為であろうか、何時しか身体がガタガタと震えていることに気が付いた。 ポケツトに手を入れると目覚まし時計が入つて居た。 狼狽ぶりに我ながら可笑しくなつた。 時計は2時を指していた。 焼夷弾は落下途中で複数に分裂し、火を噴きながらシュルシュルザ−ツと音を立てて落ちて来る。 落ちてくる火の玉が、広瀬川の川面に映つて、隅田川の花火に競演を見ているようで、暗黒になれている眼には、たまらなく美しい物に映り、何時のまにかうつとりと眺めていた 。
余談だが、広瀬川と言えば火に関して思い出がある。 学生時代に、ナトリュウムアマルガムを使用する実険の時、ナトリュ−ムの小粒を2−3粒石油を入れた小瓶に入れて、コツソリと持ち出し、闇夜に人気のないことを確かめて、愛宕橋の上からピンセツトで掴んで、広瀬川に投げ込んだ。 水面に落ちるとパツと火がついてそのまま2−30メ−トル流されて行き、パンと大きな音を立てて消え去るのを面白がつたことがあつた。
午前2時過ぎ、敵機が去つたので、米ヶ袋の自宅へ引き返した が、途中カチカチと音を立てる時限爆弾が、道路に刺つて居た。 思い切つてその横を通り抜け、家の前まで来ると6角形棒状の不発焼夷弾と、新聞紙大の湾曲した鉄板が落ちていた。 北から延焼してきた火災は隣家まで来て、我が家の塀が燃えていた。 近所の人たちは避難して、誰も帰つて来なかつたので、妻と2人で渾身の力を込めて板塀を倒し、バケツで水をかけて延焼を食い止めた。 .風が全く無かつたことが何より幸いであつた。 米ヶ袋上町は、この家を先端にして南側の家並みが全部焼け残つた。 午前3時過ぎ、土に埋めておいたカメラを取り出し、金属材料研究所に駆けつけた。 私は当時、研究所の本多光太郎先生、大沢与美教授のもとで、高速度鋼の研究をしており、赤煉瓦の旧館3階中央の出窓のついた元所長室(10平米)で実険をしていた。 この部屋は現在は建替えられて新しい建物の中に正面玄関に保存されている。 当時の日本は、弾丸を作る為に女学生が造兵廠に動員されて、赤い鉢巻きをして、灯火管制下で旋盤作業をしていたが、タングステンやコバルトが不足して切削作業が困難になつていた。 徹夜の旋盤作業で スピ−ドを上げると、バイトが焼け付き、削れない。 そこで之に代わる物として、当時の日本海軍がマレ−半島のイルメナイト砂を持ち帰り、之からジルコニュ−ムカ−バイトを作り、純鉄粉と 混合し、粉末冶金法で焼結して、大替品のバイトを作れと言う研究テ−マを私は与えられていた。 試作品が出来て、いよいよ切削テストをすることなつて居た矢先の空襲であつた。 研究所に駆けつけ赤煉瓦館の無事を確認して、更に屋上に上がり眺めると、周囲は黒煙が濛々と立ちこめ、時々紅蓮の炎が立ち上がり、又時々小さな破裂音が聞こえるだけで人の気配は全然無かつた。 この世の地獄を見るようで恐ろしく、又気が遠くなり、魂が抜け去るような異様な静けさであつた。 しばし茫然と眺めていた。 夜が明け初める頃、直ぐ目の前の理学部化学教室の本館の建物が、黒煙の中から、かすかに透けて見えた時にはホツと安堵の胸を撫で下ろした。 然しかつて学生実険の頃親しんだ本館の裏の平屋の有機化学実験室は、木造の為に周辺の建物と一緒に勢いよく燃えていた。 ベンゾ−ルなどから出たと思われる黒煙が濛々と立ちこめ、周囲の視界を遮つていた。 屋上からカメラを向けて5秒間シャツタ−を押した。 研究所裏の方でも炎が上がつていたので、之も写した。 この時のフイルムは数年前に買いだめをした貴重な1本であつた。 大学構内を通り帰宅したが、焼夷弾の燃えかすが、道路を焦がして転がつていた。 全国帝大の中で,最も瀟洒な建物の理学部化学教室は無傷であつたが、法文学部や工学部、理学部の木造の建物は焼け落ちて燻つていた。 窓ガラスの1部は、強い炎に煽られて熔けて流れ、様々な造形をしていた。 松の木は変わらぬ枝振りで立つていたが、構内が広くなつた様に感ぜられた。 帰宅して、井戸の中から布団を引き上げようとしたが、一旦水を含んだ布団は,栄養失調の 体力では重くてどうしようもない。 大町二丁目に佐佐重と言う仙台味噌の老舗がある。 学生時代にお世話になつたので、家内と共に火事見舞いに参上した。 市電環状線の内側、市の中心部は完全に焼け野原になり、瓦礫の山になつていた。 熱気を含む瓦礫の山を掘り起こし、失われた肉親を捜す市民の姿は到るところで見受けれれた。 防空壕の中では大勢の人が窒息焼死していた。 松の木は油が多い為か、立つた儘で燃えていた。 異臭が鼻を突き、兵舎から逃げ出した軍馬が火炎にまかれ、焼け死んで、道路の真ん中のあちらこちらに横たわつていた。 佐佐重さんの広大な店も工場も蔵を残して総てが灰燼に帰していた。 カメラを取り出し、後日の記念の為にとこの焼け跡を写した。 突然どこからか2人の若い兵士が現れて、私ともんぺ姿の家内を捕まえて、「お前達はスパイだろう」と言い三越の傍の憲兵隊まで連行された。 実に不味いことになつてしまつた。何といつて弁解すればよいのか。 瞬間に色々なことが脳裏をかすめた。 私はその当時6球ス−パ−ヘテロダイン式の短波受信機を自作し、て本箱の中に隠し、深夜密かにレシ−バ−でVOAを聞いていた。 もし家宅捜索されて短波受信機が見つかれば厳罰に処せられることは必至である 。憲兵隊入り口から階段を上つた処に取調室があつた。 室内の木の机の前に2人が座らされ、カメラを前に置いて2人の憲兵から尋問された。 丁度その時、警戒警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。
目の前で肩を怒らせていた憲兵は、直ぐに立ち上がり地下室に避難を始めた。 呆気に取られている私達の処へ1人が引き返し、カメラの裏蓋を開けてフイルムを巻き取り、光を入れたから之でよいとそのまま返してくれた。撮影済みの部分は感光せずに助かつた訳で、今でも役に立つ。 この時のB29は焼け跡の仙台を撮影に来たものと思われるが、私にとつては命の恩人である。 翌日7月10日の午前8時東北軍管区の発表に依れば、「敵B29約100機は、約2時間30分にわたり、仙台市に無差別焼夷弾攻撃を加え来たり、市内各所に火災発生するも概ね午後5時頃には鎮火せり。 市民は市の再建に向かい猛進し有り。 本空襲における戦果は目下調査中なり」(河北新聞号外)というものであつた。 焼死した軍馬の肉の配給があつた。 食糧の配給が全く無かつた時で、小さな肉の1片でも飢えた口には美味だつた事を覚えている。市中には性別すら判らない焼死死体もあり死体処理台帳が作られた。 仙台北署によると、4日間に取り敢えず収容した死体だけでも834体、内身元不明の180体は発見現場を明記して,壽徳寺に仮埋葬されたという。米国公立文書館の仙台空襲に関する資料によれば、123機のB29が、マリアナ基地より出撃し、高性能爆弾8個、焼夷弾912トンを投下したとなつている。 仙台市の発表では,この空襲による犠牲者は1066名、負傷者数千名、焼失家屋11,120戸、罹災者54,821名である。 空襲の翌日に空から幅5センチ、長さ1−3メ−トルのアルミ箔がキラキラ光りながら空から降りてきた。 山の木に引つ掛かつていたのもある。之を拾つた市民が、気味悪がり、大学に持参した。 酸にもアルカリにも溶けた。 地上の電波探知機を攪乱する為に、敵が高空でばらまいたアルミ箔がユツクリと降りてきたのである。 昨日の空襲警報発令の前にB29の爆撃が開始されたのは、このアルミ箔が使用された為である。 東北帝大の電気工学科の屋上には、大きな八木アンテナが設置されて、櫛形のアンテナを、横にしたり縦にしたり、方向を変えて電波探知機の研究が進められていたが、アメリカではこの技術をレ−ダ−として実用化し、その為に日本軍がミツドウエ−の海戦やその他で甚大な損害を被る結果となつたのである。
浅尾テル子
私達が入学したのは昭和24年,暗い戦時下の生活から開放され,新しい日本を築く意欲に燃えて東北大学の門をくぐりました。卒業後それぞれの人生を歩いて50年,仙台で50周年記念のクラス会を開きました。今回の世話人は山口勝三,浅尾テル子,宮本正俊の3名で,紅葉の最も美しい季節,平成14年10月19日(土)に行いました。参加者はこれまでになく多数で名簿順に,浅尾テル子,石川隆郎・同夫人,磯貝浩司,伊藤昭夫・同夫人,岩波泰夫,大友義郎,小原平太郎,上遠野 亨,嶋 裕,高橋盛夫,中沢典昌,長瀬秀典,堀田善和・同夫人,松井和夫,松本幸起,峰岸順二,村田一郎,山口勝三,横山 友,渡辺茂隆の23名です。
当日は昼過ぎ KKR ホテル仙台に集合し,2時に見学希望者を乗せて,マイクロバスは片平丁の東北大学キャンパスに到着,史料館の永田さんの案内で,同館を見学し,昔の大先輩方の業績を偲びました。続いて旧化学教室に入り,最も想い出の深い階段教室に入った時は思わず歓声があがりました。それぞれ50数年前に講義を受けた席に座り,懐しく語り合いました。この後化学教室や眞島先生の胸像をバックに記念撮影,魯迅の像を眺め,想い出深いキャンパスをしばし散策,再びバスに乗って青葉山の現在の化学教室を訪ねました。化学教室の屋上に上がって青葉山地区,片平地区,星稜地区を一望し,東北大学の目覚ましい発展に目を見張りました。帰路は青葉城址を眺めながら大橋を渡り,西公園,定禅寺通りのけやき並木の下を通って KKR に戻りました。
6時半から全員で宴会に入り,美酒あり,談笑あり,歌あり大変盛り上がって賑やかな和気あいあいの一夜となりました。翌日は,平成15年秋の飛騨高山での再会を約して解散し,各自希望の場所に向かいました。
原 雄次郎
去る5/21(水)有馬温泉の由緒ある古泉閣に於いて総勢18名参集して東北大学理学部化学教室S28(旧制)卒業生クラス会が盛大に開催された。今回のクラス会は関西在住の藤澤友吉郎君の尽力により実現したものであった首都圏は元よりはるばる米国西海岸、東北各地から駆け参じ、中には卒業以来半世紀ぶりに会う友もいてすぐには名前を思い出せず、お互い無事を喜び合い誠に有意義な集まりであった。なお我々のクラスは卒業時30名であったが、本年4月はじめに物故された五井経君を含め残念ながら9名が故人となられている。開宴に先立って藤澤君の発声で故人の冥福を祈り黙祷が捧げられた。一方昨年秋、栄誉ある勲二等瑞宝章の叙勲を受けられた藤澤君のお目出度い話や吉原賢二君より東北大の小川正孝先生が世界に先駆けてニッポニウムを発見し、後に次男の英次郎先生がこれがレニウムであったとされた逸話や我々の学んだ片平丁旧化学教室の保存運動(広報誌「樅の木」2003.3に記載)の動向などが話題となった。宴たけなわの頃われらの紅一点、日野(旧姓高橋)ふきさんに携帯電話インタビューがなされ大いに盛り上がった。かくして古泉閣の美味なる料理とSan Jose在住藤城四郎君持参のまろやかなカリフォルニアワインに酔いしれて夜の耽るのを忘れ語り合い久しぶりに旧交を温めることが出来た。最後に「次はお互いボケないうちに川崎か新宿あたりで会おう」との声が上がった。
浅尾豊信(昭和29年卒)
私どもの同期会は2年毎に開催しておりますが,平成 14 年は卒業後ほぼ 50 年,古稀を迎えて仙台で開催することとなりました。世話人は仙台在住の浅尾豊信,岩泉正基,大槻 勇の 3 名,今回は共に学んだ大学,共に遊んだ仙台の街を訪ねることとしました。
秋たけなわの 10 月 16 日(水)午後 4 時,参加予定者全員(浅尾豊信,安達誠之,足立録司,岩泉正基,上野邦彦,大槻 勇,小川欣也,小原龍吉,小池隆平,高橋正弘,寺沢唯夫,芳賀一夫,箕輪輯二,宮井信嘉,吉田俊昭,和田泱夫の面々)が片平丁旧化学教室前に集合,まず史料館では東北大学の昔の懐しい資料に見入り,続いて共に学んだ旧化学第一講義室を見学,椅子に腰を下ろして黒板を眺め,学生時代に想いを馳せ,また昔の先生の話に花が咲きました。続いて旧化学教室に入り,三階のあの円い第二講義室やそれぞれ所属の旧研究室を訪ねました。化学教室をバックに記念撮影をして五橋会館にチェックイン,逝去された同級生阿部武弘氏,稲村 裕氏の両奥様を迎えて宴会に入り,美酒に酔い,話と歌で大いに盛り上がりました。その後思い思いに街に散り第一日目を過ごしました。
翌 17 日も快晴,当日朝東京から駆け付けた高村喜代子さんを駅に迎えて,全員るーぷるバスに乗車,一番町,霊屋橋を経て瑞鳳殿前下車,瑞鳳殿を見学,伊達政宗をはじめ伊達家代々の華麗な宝物を前に昔の仙台を偲びました。再びバスに乗車,大橋を渡り青葉城址の側を通って理学部前下車,化学教室会議室で伊藤化学専攻長の出迎えを受け,最近の大学や化学教室の様子などを伺いました。屋上に上がって心地よい風に吹かれながら仙台全体から太平洋,さらに青葉山地区,片平地区,星稜地区を一望,仙台における東北大学の位置づけの大きさとこの 50 年間における仙台の変貌を実感しました。
再びバスに乗車,川内,西公園さらに定禅寺通のけやき並木の下を通り,東二番町の大通りと仙台市内を一巡して駅前下車。仙台ホテルでの少し遅めの昼食に舌鼓を打ち,2 年後いわき市(幹事,上野)での再会を誓って解散し今回の同期会を終了した次第です。
今回は様々な東北大学の資料や仙台・東北地方の観光資料と共に,古稀を記念し大崎八幡神社で祈祷を受けた絵馬を配りました。
なお,秋の叙勲で渡辺浩明氏が勲三等瑞宝章を受章し一同大いに祝福しましたが, 10 月に元気な姿を見せた高橋正弘氏が 11 月 29 日急逝されたことは誠に残念であります。